「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」/セザンヌ《赤いチョッキの少年》

 国立新美術館「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」に足を運んだ。世界大戦に乗じて武器商人として財を成したスイスの実業家のコレクションで、2008年の盗難事件をきっかけに閉館となり、2020年までに所蔵作品はすべて改装中のチューリヒ美術館に寄贈される予定だという。最後の移転前の企画展示として世界を巡回中ということだそうだ。しかし、武器を売った金で、美術作品を蒐集するというのは、なかなかに奇妙な話だ。

 展示作品は64点と、新美にしては比較的小ぶりな企画展だ。ドガは《ピアノの前のカミュ夫人》以外はあまりぱっとせず、クールべ、ピサロシスレーの作品もいくつか展示されていたが、さほどいい作品ではなかったと思う。ボナールも微妙だったものの、その隣に展示されていたヴュイヤールはよかった。ヴュイヤールの特徴的な黒。マネ、モネ、ゴッホゴーギャンピカソ、ブラックとあって、そう考えると小ぶりのわりには粒揃いの展示だったかもしれない。たしかにあまり退屈はしなかった。

 まず驚いたのは、17世紀のアントワープ出身の画家フランス・ハルスが、印象派の先駆けの肖像画家として位置づけられていたことだ。あの粗野な油彩の筆づかいは、クールべやルノワールドガ肖像画と呼応する(意外にもアングルの私的な肖像画も)。19世紀から20世紀まで、フランス絵画を中心にすぐれた作品をもっている。

 

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  目玉となっているルノワールのイレーヌ嬢もとくと見納めた。「西洋絵画史上最高の美女」といういささか大きく出ているキャッチコピーにも、さほど異論がない。たしかに、あの佇まいはひとを惹きつけるものがある。周囲の景色や服装と比して、顔の描きかたが息を呑むほど精緻である。鑑賞者の視線は、透き通るような彼女の肌の上を滑っていき、そして彼女の眼に集まるように設計されている。失われることが定められたー――すでに失われてしまった――少女の美であり、そこにはいくらかの憂いの感情がある。また、わたしはコローの《読書する少女》を見て、コローへの愛を再確認した。今回はこの一点だけだったが、かれは肖像画においても、風景画においても、まったく素晴らしい水準の絵を制作している。コローの企画展など、やってくれないだろうか。この絵についても、鮮やかな赤(上着と首飾り)が画面をよく引き締めている。

 

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  とくに、セザンヌの作品については非常に充実していて、はじめに驚いたのは、《聖アントニウスの誘惑》だ。わたしはこの主題が好きで、いろいろな画家の同主題の作品に触れてきたが、セザンヌも描いているとはまったく知らなかった。そして、いままで見てきたことがないような描きかただった。「聖アントニウスの誘惑」は、西洋絵画としては有名な宗教主題で、財産のすべてを投げ打ってエジプト砂漠で隠者として修行している道中、さまざまな誘惑に苛まれるというものだ。この絵では、聖アントニウスは左上に追いやられていて、豊満な肉体で誘惑を仕掛ける女たちが画面の大半を占めている。グロテスクで奇怪な雰囲気を湛えつつ、しばしば雑多になりがちな画面を深い黒で引き締め、ミステリアスな様相を呈している。

 

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  しかし、《聖アントニウスの誘惑》よりも驚いたのは、《赤いチョッキの少年》である。わたしはこの機会にはじめて《赤いチョッキの少年》(1888-90)の実物に見えることができた。これまでいろいろなセザンヌの作品を見てきたつもりだったが、これは本当にすごい作品だ。いまさらだが、セザンヌの画業のなかでいちばん好きだと思う。傑作中の傑作だ。

 やはり目を引くのは、不自然なまでに長い右腕である。この右腕は明らかに作為的な長さをもっていて、その違和感が全体の画面のリズムを形成している。キャプションにも説明があったが、あの右腕は、画面を横切る斜めの線と交わっているのと同時に、壁の水平線とも関係している。鑑賞者は、右腕以外の部分に注視しても、存在感のある右腕が視界に闖入してくる。すなわち、鑑賞者は部分を見ているにもかかわらず、否応なしに意識は画面全体へと差し向けられてしまう。かくして視覚の運動が生ずるのだ。

 そして、形だけでなく、中心に位置するチョッキの赤とパンタロンの青の鮮やかな色彩が全体の統一感を演出している。かたちと色彩という、絵画における二つのもっとも重要な要素が、ひとつの作品のなかに最高の形で結実しているのである。あれほど高いレベルで部分と全体がたがいに奉仕しあっている画面ははじめて見たといっていいかもしれない。やはりセザンヌは19世紀においてもっとも重要な画家であるのではないか。わたしがあらためてそのことを断言する前に、いささか留保が要されるだろう。他所で薦められているのを見た吉田秀和著『セザンヌは何を描いたか』(白水社アートコレクション)の古本を購った。この本でも、《赤いチョッキの少年》の検討がなされているようである。