日誌 | 20230922 - 0927

9/22 金
 中国語の飛び交うアジア料理店で、フランスで生まれたベトナム料理こと Bobun をひとり黙々と食べる。それまで中国語でお喋りに耽っていた客が「ヨボセヨ」と着信に応えるのを聞いて、わたしは思わずどんぶりから顔を上げた。流ちょうな韓国語を喋っていて驚く。といっても驚くほうがおかしな話で、中国語と韓国語のバイリンガルなんてそこら中に存在して然るべきなのだが、わたしはこれまで現代の中韓関係に思いを至らせたことがほとんどなかったと気づいた。日本にとって韓国や中国はとても身近な国で、われわれ日本人は東アジアの三国での位置づけを強烈に意識しているにもかかわらず、中国と韓国の直接的なつながりに関してはあまり多くを知らない。自意識過剰だ。

 パリ10区のライブハウス New Morning では、ブラジルからツアー中の Bala Desejo のコンサートが組まれていた。去年音楽雑誌社で務める友だちから『SIM SIM SIM』というファースト・アルバムの存在を教えてもらって以来、わたしはこのパンデミックを機に結成されたMPBグループを愛聴し続けてきたのだが、念願叶ってのライブである。多くのブラジル人たちが駆けつけていたせいもあってか、あれだけ踊らないパリの連中が終演のころにはみな踊り狂っていた。汗だくのまますがすがしい表情をしたわこさんと綾介さんと一緒に外に出て、冷気を浴びながらストラスブールサンドニのおいしいクレープを頬張る。わたしたちはまるで茹蛸だった。帰り際にメンバーの Lucas Nunes と立ち話をして、明日カエターノのライブでまた会おうと言われたとき、だいぶ大袈裟な言いかただが、まだ人類を信じていていいのだという気分になった。だいぶ大袈裟だ。

f:id:immoue:20231107032844j:image

 

9/23 土
 すでにケンちゃんは待ち合わせの北駅前のインド料理屋に到着していた。ガラス越しの再会は半年前とまったく一緒。今回はブラッセルからパリまで、長距離バスではなくタリスに乗ってきたという。たった一時間半のあいだ列車で座っているだけで隣国の首都に着いてしまう欧州の距離感。南アジア出身の客たちで賑わう店内の真ん中では、給仕の女の子が立派なガネーシャが飾られた神棚に手を合わせて祈りを捧げている。線香の煙がもくもくと焚かれるなか、わたしたちはビリヤニに舌鼓を打ち、それぞれの近況を報告しあう。やがてわたしはひとり抜け出していそいそとフィルハーモニーカエターノ・ヴェローゾのコンサートに向かった。

 八十一歳を迎えたばかりの壇上のカエターノは、たどたどしいフランス語でいまの時代のもっとも偉大な詩人はアウグスト・ヂ・カンポスを措いてほかにいないと言った。わたしの知らない詩人だったが、客席からは歓声が上がっている。それにしてもカエターノほど長きにわたってMPBの現在形に拘り続けた音楽家はほかにいないのではないか。旧作のレパートリーはほとんど演奏せず、近年の新曲ばかりで組まれた若々しいセットリストを聞いて、これは踊るしかないでしょうと、五階のバルコニー席にいたわたしはひとりおもむろに立ち上がって踊りはじめた。ぽつりぽつりと後続の者たちが現れて、しまいには会場を埋め尽くす二千人余りの観衆たちの誰も彼もが立ち上がって踊っていた。なんと幸せな空間だろう。何といったってわたしは二夜連続で極上のブラジル音楽で踊っているのだ。

 帰り道に言葉を交わした男性は、もうこのまま死んでもいいと夢見ごこちで語った。わたしも高揚感に包まれたまま、ピガールの駅前でケンちゃん一行に再び合流して、モンマルトルのあたりをぶらついて酒を飲んだ。四人でほろ酔い気分で就いた帰路。別世界に連れていかれるのではと訝しんでしまうほど地下深く深くまで続く Abbesses 駅の螺旋階段をみんなで下っていったことが妙に忘れられない。

f:id:immoue:20231107161114j:image

9/24 日

f:id:immoue:20231107033118j:image

 フィルハーモニーの隣のシテ・ドゥ・ラ・ミュージックで組まれている能楽公演に足を向ける。会場に立派な檜の能舞台が組まれているのを見て、わたしは思わず息を呑んだ。この日の演目は狂言の「川上」と能の「重衡」。終演後に綾さんと合流してビールを一杯奢ってもらう。彼女は前夜に観た片山九郎右衛門の「船弁慶」にえらく感動して、もう一度観に行こうと思うと言った。わたしたちはいま見たばかりの「川上」について話す。能は神々の世界を描くのに対して、狂言は人間賛歌だと言われる。「川上」の結末も、カミからの信託に背いて、目くらのままあっても妻と一緒に暮らすこと、つまりは信仰よりも愛を選ぶ物語だったよね?

 五番線の地下鉄に乗って、13区のラオス料理屋へ。わが家で面倒を見ている三人に加えて、イッセイ・ミヤケで働くエリさんとスイスの藝大を修了してパリを拠点に活動するヒカルくんとはじめまして。みな炒飯の美味しさに驚いていた。二軒目にいこうと辺りを散策するのだが、13区のチャイナ・タウンといえど、さすがに日曜日の夜遅くに開いている気の利いた店はほとんどなかった。適当な店でもう一杯だけ引っ掛けて解散となり、わたしたちは四人で家に帰る。わたしが猿楽に現を抜かしているあいだ、ケンちゃんたちは一日パリを散策していたようだ。この二人と街歩きするのは楽しかったよ、いつの間にか二人ともいなくなって自分のことをやっててさ、とわこちゃん。綾介さんが街の写真を撮り、ケンちゃんは街の音を録り、わこちゃんはその様子を眺める。ケンちゃんは机の上にパソコンを広げて、このところ制作に取り掛かっているソロアルバムの一曲に、今日公園のバスケットコートでレコーディングしたばかりの音声を重ねて聞かせてくれた。あまりの美しさにうっとりして、これは傑作になるにちがいないと期待に胸を膨らませた。

 

9/25 月
 三日連続で五番線で La Villette に向かい、今日は三人で能楽公演へ赴く。演目は狂言「舟渡聟」と能「隅田川」。わたしは半年前にヴァンセンヌの森のなかにある太陽劇団で、喜多流能楽師による「隅田川」を観て、身体の震えが止まらないほどの感動を味わったばかりだった。この日のわたしも、息子の行方を捜す狂女の悲哀に満ちた演目を観ながら、いつ舞台の中央に据え置かれた茂みから子どもが飛び出してくるのかと身構えていたのだが、そのまま終演を迎えてしまった。物語のディテールも前回と微妙に異なっている。どうやら「隅田川」には世阿弥の手によるものと息子元雅が改変したものの二通りがあって、最後に小方が登場するのは後者らしい。わこさんもわたし同様、過去に元雅作を観たことがあったようで、その異同についてあれこれと話し合う。てかさあ、「舟渡聟」の酒飲みの爺さんって、現代の電車でワンカップを飲んでる爺さんと一緒だよねえ、人間変わってないんだなと思ってげんなりしちゃったよ、とはわこさん。

 そういうお喋りに耽りながら夜道を歩いていると、ばったり林其蔚とその奥さんに遭遇。彼らもちょうど能楽を観たところだという。腹を空かせたわたしたち五人は、台湾と日本の伝統芸能の違いなんかについて喋りながら、フラフラと飲食店を探す。どこも開いていない。もはや空腹を満たせればなんでもいいと最後に逢着したファストフード店で、粗悪なチーズがこんもりと盛られたタコスを食べた。六百年前に生み出された能楽を観たあとの落差がすごいねとテラス席で笑い合う。あんなにお腹が空いていると言っていたはずなのに、林其蔚の奥さんはほとんど注文したフードを残していた。

 

9/26 火
 パリで某新聞社が開催する某フォーラムの運営仕事。この日のわたしはスーツを着て、フランス人技術者とやり取りする無線機、日本人関係者の無線機に、同時通訳機器のイヤホンを両耳に付けて、職場の電話子機や私用のスマートフォンを首からぶら下げていた。機器への接続過多でサイボーグのような恰好になっている姿を鏡で見て、わたしはひとり舞台袖でほくそ笑んだ。

 登壇者のひとりに樂直入がいた。樂吉左衛門の先代で、初代から数えて十五代目に当たる。わたしは樂焼茶碗に熱を上げていた時期があって、京都に行くたびに樂美術館も決まって立ち寄るほどなのだが、わたしにとって先代は傑出した天才なので、本人を前にしてすっかり恐縮してしまった。ヨウジ・ヤマモト(かどうか確かではない)の黒に身を包んだ樂直入は、壇上でロスコやイヴ・クラインの絵について語っていた。あなたは芸術家ですかと問われたら、今日はそうだと答えるかもしれないが、明日には違うと言うかもしれない。ぼくはそういう未決定の「狭間」について考え続けてきました。そういう領域こそが大事なんです。

 

9/27 水
 昨夜、余りものの寿司の大皿をアフリカ人よろしく頭の上に載せて持って帰ってきていたので、昼から「ホレホレ寿司パーティじゃ」と三人でおいしく寿司を平らげる。夜はZOOMをつなげて読書会。この日に取り上げたのは吉本ばななの新刊『はーばーらいと』。宗教二世を主題に掲げた作品だが、もうじき還暦を迎えようとする女性作家が、思春期真盛りの男子中学生を主人公に据えていたことにいくらか厳しいものを感じた。べつに自由なのだけれど…。

 明日からの旅行の荷造りをひと足先に終えたわたしは、窓際でジェシカから届いたボイスメッセージを聞く。フランス旅行から帰国して一か月。ウィスコンシン州の公立学校で移民の子どもたちに英語を教えている彼女は、新学期がはじまって目の回るような日々を過ごしているという。わたしたちはエクス=アン=プロヴァンスに留学していたころの友だちで、この夏に九年振りに会って、一週間ほど南仏の旅行に一緒に出かけたのだった。それにしても、と彼女はいう。長年会っていない友だちと再会したときに呼吸や会話のリズムが合うことって、実はあんまりないと思うんだ。それぞれ違う場所にいて、ちがう文脈のなかで生活をしていたら、少しずつリズムが変わってずれてしまうのは当然だよね。でも、きみとは九年振りに会ったのに不思議と変わらぬリズムで一緒に時間を過ごすことができて、本当にうれしかったし、それはこのうえなく有難いことだったよ。

 わたしはそのまま窓際で煙草を吸いながら、この夏のジェシカとの南仏の旅行を思いかえしていく。128年前の『ラ・シオタ駅への列車の到着』と同じ構図でカメラを構えていたら、その列車に思いがけずジェシカが乗っていたこと。ラ・シオタの港に設えられた真夏のバンド演奏はカラオケ大会の様相を呈し、詰め掛けた老若男女全員で熱唱したダリダの「灰色の途(Je suis malade)」。花火が打ちあがる音を聞いた途端に住人たちと一緒に海岸線まで駆け出した足音。毎日のように海で灼かれたせいでひどい日焼けに苦しめられた肌。すらりとした長身のラファエルの先導に遅れないようにレンタル自転車を漕いだマルセイユの海岸線。バイレファンクがかけられている小さな箱でのダンスバトル。レイヴ・パーティー中の隅っこの浜辺で三人で喋ったあとに交わした長い長い抱擁。パリに戻る列車のなかで交わした言葉の数々。わたしはあの旅にどれだけ救われたことかわからない。まるで憑き物が落ちるかのように、しばらく体内を蝕み続けていた悲しみから解放されたという感覚があった。そして明日からまた別の旅行がはじまる、とも思う。あたらしい土地へ、あたらしい人たちと、あたらしい気持で。

日誌 | 20230915 - 0921

9/15 金

 ブローニュの森を抜けてパリ郊外の La Seine musicale に。坂茂セーヌ川に浮かぶ中洲の建築を手がけ、つい最近名和晃平のモニュメントが設立されたコンサートホールである。ここにはかつてルノーの自動車工場が建っていたという。

 バルタバスの演出によるモーツァルト『レクイエム』。触書きにはこのようにある。「騎馬オペラ」の劇団を立ち上げた奇才演出家。60人のコーラス隊とオーケストラによる生演奏。13頭の馬。9人の騎手。いったいどんなもんじゃと期待に胸を膨らませ、最大6,000人が収容可能だという巨大な会場に腰かけた……のだが、蓋を開けてみると「ステージ上で馬が走っている」というはじめの昂奮を超えることはなかった。馬にアクロバットをさせるわけにはいかないもんなあ。それよりもむしろ、白人ばかりが詰めかける会場でモーツァルトが演奏され、騎手はみな長髪の白人女性ばかりという人種的な偏りにだんだんと気持悪さを憶えていた。一緒に足を運んだ二人もあまりピンと来ていなかった様子で、悪口をいいあいながらバスで郊外から自宅に戻って、塵芥の舞うパリのケバブ屋で、いかにも健康に悪そうなケバブを食べた。今日にふさわしい食事。本当はこの日、わたしは長らく心待ちにしていた Amaarae のコンサートを見に行くはずだったのだ。アーティスト本人の個人的な都合で公演は中止、3月に延期となってしまった。

 

9/16 土

 キノコの炊き込みご飯にみそ汁、鯵の南蛮漬け、ほうれん草のおひたし、野菜の天ぷら、蕪の漬物。三人で料理をして(二人に料理を任せて?)、フランスの友人二人の来客を迎えて、五人でわが家の円卓を囲む。フランス人たちに対して君たちこのご馳走にもっと喜びなさいヨと内心思ったりしながらも、机の上では休むことなく箸が行き交い、やがてきれいに皿は平らげられた。ちょうど冷蔵庫に眠っていたとらやの羊羹が供される。二十四節気にあわせて売り出される季節限定で、水の意匠があしらわれたもの。美しい和菓子。カミーユは季節の名前が二十四もあることにいたく感動を憶えていた。

 

9/17 日

 三人でクリニャンクールの蚤の市へ。クリニャンクールで必ず寄ることにしている古本屋で、わたしはずっと探していた『パリ郊外』初版の実物を手に取った。ブレーズ・サンドラールが文章を書き、ロベール・ドアノーが写真を撮ったもの。この書物については堀江敏幸が文章を書いていたはずだ。値段は 200 € 。今回は購入を見送ってしまったが、手許に置いておきたい書物だったことは間違いない。そうしてわたしが本屋を漫然とぶらついているあいだ、わこちゃんは画集、綾介さんは写真集を片っ端から物色していた。アレックス・カッツの画集のほかにもあれやこれやをニコニコしながら購入していたわこちゃんを見て、ああこの子はどんな場所でも自分の力で切り拓いて生きていく力があるんだと、大げさな感銘を受けていた。

Blaise Cendrars / Robert Doisneau, LA BANLIEUE DE PARIS, 1949.

 セーヌ河に注ぐ運河に沿って歩いていると、ユダヤ教徒たちが川べりに集まって、みなでヘブライ語聖典を読んでいる姿をたびたび見かける。何人かは羊の角と思しき笛を手にしている。あとで調べてみると、あの集会はヘブライ語でローシュ・ハシャナと呼ばれる、ユダヤ教の暦における新年を祝うものだとわかった。過去に犯した罪を水に流すと説明にある。ユダヤ教ではアダムとイヴの誕生から暦を数え、今年で5784年目に当たるそうだ。

 三人で近所のアイリッシュパブラグビーW杯の日本対イギリス戦を見に行く。イギリス人たちに混ざって日本のチームを応援するわれわれ三人。試合はイギリスが勝利を収めた。わたしは周囲のブリティッシュに祝福の言葉のひとつやふたつ進呈して差し上げようと寛大な気持になっていたのだが、試合が終わった瞬間にみなわたしたちとは目すら合わさずそそくさと帰っていった。まるで日本人みたいだ。

 

9/18 月

 Facebook のタイムラインに、わたしの「友達」に寄せられた追悼のメッセージが次々と流れてくる。十年以上前のインド旅行で一度会ったきりのバックパッカーだったが、どうやらつい先日、若くして急死したと知る。彼はわたしのことなど憶えていなかっただろう。わたしだって彼のことはよく知らない。けれどもたくさんの人たちが彼のアカウントをタグ付けして、故人を偲ぶ文章や写真の投稿をかたっぱしから読んで、本当に愛されていた人だったんだなと神妙な気分になる。その日も彼はいつものように和歌山で畑仕事に出かけ、梅の木に抱き着くようにして亡くなっていたのが発見されたのだという。まさに天に召されたという感じの最期だ。

 パリを訪問中の高校の同級生と十年振りに食事。彼は手土産にアルプス木島平の「村長の太鼓判」という米を持ってきてくれたのだが、これが炊いてみると抜群においしい。

 

9/19 火

 引越しの相談で茉莉さんの家にお邪魔する。コレージュ・ド・フランスの物理学のオープン講座から帰ってきたミシェルの、優しげな皺の入ったお茶目な表情を見て、わたしはこの五区のアパートに住むのがなおさら楽しみになった。

 

9/20 水

 パリの埃っぽい空気はもう辟易、森にお出かけして新鮮な空気を目いっぱい吸おうというわこちゃんの提案を受け、わたしたちは一時間ほど列車に乗ってフォンテーヌブローの森に出かけた。十九世紀のバルビゾン派の画家たちが絵を描いていた土地。コローの時代からそう変わらない風景がある。わたしたちは森のなかを数時間歩いて、やがてバルビゾンの町に辿り着いて、カフェでデザートを食べてから、日が暮れるころにパリに戻った。

Camille Corot, Fontainebleau – Chênes noirs du Bas-Préau, 1832 or 1833

9/21 木

 待ち合わせの時間に遅れそうになって、冷たい風が吹きはじめた薄暮の大都会を大急ぎで自転車を漕ぎながら、ああパリの冬も美しいのだという感覚を久々に思いだした。L'Olympia の位置するマドレーヌ寺院とオペラ座ガルニエ宮を結ぶ大通りは、わたしが知るかぎりパリでもっとも都会的な感じがする。この日の Arlo Parks のライヴに詰め掛けていた若者たちも、まさにシティボーイ・シティガールという風貌だった。

 わたしはサウス・ロンドンの大都会出身の若きミュージシャンのパフォーマンスそのものよりも、むしろ彼女のもつ黒い肌の美しさに感動を受けた。しかし「黒い肌が美しい」という美的判断は、どのようにして育まれるのだろうか――という仕方で問いを立てるとかなりきわどくなってしまうが、換言すれば、たとえば100年前のパリにあって、この日のわたしと同じぐらいの深さで、黒い肌の美に感動を憶えることは「可能」だったのかと思った。いまは先人たちの闘争の甲斐あって、ファッションやコスメティクスの宣伝でカラードの存在を見ることは日常茶飯事になった。いまでも行き過ぎたコレクトネスには微妙な感情を抱いているが、さまざまな肌の美しさを純粋に慈しむことができる時代に生まれて、わたしは本当によかったと思う。たとえどんな肌の色であっても、美しい肌は美しいのだというゆるぎない確信がある。けれども一見生来の感覚的なものに根差しているようにも思われるこの確信に、どれだけ文化的なバックグラウンドが寄与しているだろうかと考えはじめると途端に分からなくなってしまう。

『交差する声』作品評(YIDFF公式ガイド「SPUTNIK」)

山形国際ドキュメンタリー映画祭公式ガイド「SPUTNIK」に、コンペティション部門に選出されたマリのドキュメンタリー『交差する声』についての作品評を書きました。アフリカがネオコロニアリズムから真に脱却するための農業協同組合の実践を記録した作品です。オンラインでもお読みいただけますので、よろしければぜひに。10月8日付刊行の No.4 に掲載。

 

www.yidff-live.info

日誌 | 20230909 - 0914

9/9 土

 まだ日の上がらない時間にパリを出たトゥルーズ行きの列車で、昨日のル・モンド紙に掲載されたイランの獄中から届いた四人の女性たちの手記を読む。死刑廃絶を訴える政治活動に身を投じた女性は、懲役16年の判決を受けて2016年から獄中にいる。「この国では、どんな瞬間にも、生きたいという欲望が罪になる」という悲痛な訴えに心が揺さぶられる。新聞から目を上げて、ふと窓の外を見ると、みずみずしい緑の菩提樹の葉っぱが風に揺られてひらひらと落ちて、朝日できらめいている光景が目に飛びこんできた。その刹那、言いようのない感動を憶えて思わず泣いてしまった。獄中の彼女たちはこんな景色を見ることすら許されない。

 トゥルーズに降り立つのは五か月振り。パトリスと合流してぶらぶらと街を歩く。この街の基調となっている赤い煉瓦の色彩は目に快く、その景観は落ち着いていて、知的な印象さえ受ける。パトリスがあたらしいジーンズを買いたいというのでUNIQLOに行くと、店舗工事中に出土したとかで、紀元一世紀の石造りの機構がホワイトキューブの片隅に展示されていた。立派な古代遺跡のすぐ隣では10ユーロに値引きされたUNIQLOのTシャツが売られている。これが21世紀。わたしたちは一日街を散策していたが、あちこちでラグビーのために駆けつけたと思しき日本人を見かけた。近頃のパリではあまりないことだ。パトリスからどうして日本人のおばさんたちは揃いも揃ってあんなにダサい帽子を被っているのかと聞かれ、おかしくって笑い転げた。確かに。

 

9/10 日

 早起きして阪神対広島戦の中継を見る。この天王山となった週末の三戦はだいたい試合を観ていたが、これ以上ないという三連勝で〆た。監督采配も冴え渡っているし、プレッシャーのかかる場面で起用に応える選手たちも立派。本当に強いチームに育ってきたと感慨も一入である。村上、大竹、伊藤と続けて10勝を達成。何十年振りかのセ・リーグの全チームからの勝ち越しも確定させた。残りのマジックはたったの5。来週のどこかで優勝が決まるだろうか。ついに小学生以来の18年振りにリーグ優勝の胴上げが見れるのかと武者震いを覚える。寝ぼけた顔をしたパトリスにその凄さを説明するのだが、へえという感じで、あまり興味をもってもらえない。

 トゥルーズのスタジアムまで、日本対チリのラグビーW杯初戦を観にいく。まるでルールがわからないので、今度はパトリスからときどき解説してもらいながら試合を観た。日本はみごとに勝利を収めた。しかしスタジアムはなんて気持のいい空間なんだろう。三万人もの人々のあいだでウェーブが何度も何度も巻き起こった。明日はアジェンデの社会主義政権を転覆したクーデタから数えてちょうど50年だと気づいたのは帰り道のことだった。スタジアムに日本人以上に大挙して詰め掛けていたチリ人と喋る機会はなかったのだが、彼らに五十年前のことをどう考えているのか聞いてみたい気がした。つい最近1973年の国鉄ストライキのことを調べていたのだが、この年は日本の左翼が勢いを喪うような大きな転換点になったのだなと思う。

 夜はどこにも出かける気力がなくなって、テレビでラグビーW杯でウェールズとフィジーの試合を観た。これが本当に見応えのある白熱した試合で、はじめてラグビーというスポーツの真髄に触れた気がする。逆転の希望が残された最後のフィジー側の攻撃。ひとりでもミスをしたら試合終了という緊張感のなかでパスを回しながら攻め入っていく感じは、たとえば野球にはあまりないものだと思う。しかしほんの一歩のところで捕球ミスがあって敗北。まさかの幕切れに、わたしたちはしばし茫然としてしまった。

 

9/11 月

 トゥルーズ名物のカスレを供するレストランにいったり、ぶらぶらと本屋をめぐったり、古着屋を物色したり文房具を買ったりと、まったく無目的に見慣れない町を散策するのは愉しい。最後にたどり着いた改装中のオーギュスタン美術館。かつては修道院だった展示室の一角に展示されていた Carlos Pradal というマドリッド出身の画家の作品がすばらしく、エリセの映画といい、急にスペインに呼ばれているような気がしてきた。ついこのあいだまでイタリアのことばかり考えていたというのに。

Carlos Pradal, Nu de dos à sa toilette, 1977

 パリに向かう五時間近くの列車で、夏目漱石『行人』を読む。最後に H さんが二郎に宛てた長い手紙で描出された「兄さん」の苦悩に満ちた肖像。手紙の引用という体裁を取ったまま、次の一文で小説が終わっているのが本当に素晴らしい。

「(…)私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書いている今も亦ぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気が何処かでします。同時にもしこの眠りから永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気も何処かでします」

 

9/12 火

 数か月振りにスーツを着る。ヨレヨレだからアイロンを掛けなさいと叱られて、へえへえと謝りながら二人に見送られて仕事に出かける。高松宮殿下記念世界文化賞の受賞者発表式典に出席すべく国立図書館リシュリュー館に向かう。去年長きに及んだ改修工事が終わったばかり。式典が終わったあと、出席者たちのためのガイド付き訪問。14世紀に王室文庫が設置されて以来、連綿と続く〈図書館〉という制度は、ともするとフランスの最良の文化といっていいのではないかという気持になった。収蔵品の幅広さだけではない。あの息を呑む美しさの閲覧室に入るために何の手続きもいらない。ただふらっと立ち寄って、ソファで休んだり、パソコンで勉強をしたってかまわない。開かれた公共空間を標榜する図書館の理念がここでは実現しているのだ――と感動を憶えつつ、手放しに賞賛してよいのだろうかという警鐘が頭の片隅にちらついた。帰りぎわに見慣れない取り合わせの植栽だなとリシュリュー館の庭園を眺めていると、ここに植わっている植物はすべて紙をつくる原料になるものだと教えられた。なんとすばらしいコンセプトの庭園だろう。

 

9/13 水

 5キロの日本米を抱えてえっちらおっちらと帰ると、二人が大喜びして出迎えてくれる。

 

9/14 木

 阪神タイガースが18年振りにリーグ優勝を果たした。18年前、わたしはまだ小学6年生で、いまよりもずっと日々阪神タイガースのことばかり考えて暮らしていた。まさかあれから再び胴上げを見るまでにこれだけの歳月を要するとは。そのあいだ何度も他チームの胴上げを見てきたから、縦縞のユニフォームが宙に舞っている様子を目にして、いろいろな思いが込み上げてきた。あの無口でクールな岩崎が、今年夭折した横田慎太郎のユニフォームを片手に胴上げしている姿にほろりと涙する。

 わたしが阪神タイガースのファンになったきっかけは、2003年に18年振りにリーグ優勝を果たして、熱狂的なファンが次々と道頓堀に飛び込むニュースを目にしたことだった。こんな人たちはわたしの住む町にはいないと、あのときに受けた衝撃はいまだに憶えている。わこちゃんはニヤニヤしながらわたしに向かって言う。ほら、セーヌ河に飛び込まなくていいの?

日誌 | 20230901 - 0908

9/1 金

 今日でちょうど関東大震災から百年。数日前から百年前新聞というアカウントが投稿するツイートを熱心に追いかけていたが、これはツイッター(意地でも「X」と呼びたくない)というメディアにぴったりの試みだと思う。朝鮮人たちをめぐる流言が出回りはじめ、相次いで生じる殺戮や傷害事件がリアルタイムで報じられていく様子に戦慄を憶える。その百年後、厚顔無恥官房長官朝鮮人虐殺の事実関係を裏付けるような政府の公式記録がないと記者会見で言ってのけたという報道を読んで、日本の政治家は果たしてどこまで落ちぶれることができるのかと昏い気持になった。もはや底なしだ。

 

9/2 土

 暑い。8月中続いた冷気にこのまま秋を迎えてしまうのではと淋しさを感じていたので、こうして遅れてやってきた夏が喜ばしい。しかしせっかくの晴れた夏の日でも、わたしは結局一日中映画館の暗闇に引き籠っているのだった。映画好きは不幸な人種だ。

 この日最後に辿り着いたのはシネマテーク・フランセーズビクトル・エリセ特集。はじめは監督本人の登壇も告知されていたので、これは大変だと予約サイトに張り付いてチケットを入手していたが、エリセの登壇は直前で取りやめになった上、短編集のプログラムや初監督作品のオムニバスの上映までもがキャンセルとなって、正直特集としての面白みは半減。だが代打で登板したスペインの批評家の話はおもしろかった。『ミツバチのささやき』のオーディションの折に、エリセが当時5歳のアナ・トーレンに向かってきみはフランケンシュタインは知っているかと訊ねると「知ってるけど、まだ誰もわたしに会わせてくれたことがないの」と答えた。それでエリセは彼女の起用を決めたのだという。まさに映画そのものというエピソード。

 10 年振りの『ミツバチのささやき』。映画のロケ地となったアナたちが暮らす街は、マドリッドの郊外にあるのだという。あの草原の真ん中にぽつりと立つ小屋もまだ残っていたりするのかなあ。

 

9/3 日

 快晴。昨日に続いてシネマテークに一日籠って、今日も今日とてビクトル・エリセ特集。2007年に発表されたキアロスタミとの映像往復書簡、『エル・スール』に『マルメロの陽光』と三本つづけて観る贅沢。

 家に帰ってからアントニオ・ロペス・ガルシアの作品をインターネットで見る。そういえばこの画家をはじめて知ったのは、ジム・ジャームッシュ『リミッツ・オブ・コントロール』だった。そうなのだ、あのマドリッドの夕暮れを描いた傑作は、ソフィア美術館に所蔵されているのだ。

Antonio López, Madrid desde Torres Blancas, 1982.

9/4 月

 職場から外に出た途端にむわっとした生ぬるい風に当てられて、思わず東南アジアの夜ですねえと呟いた。せっかくなのでフォーでも食べに行きましょうと言って、M さんと近所のベトナム料理屋へ向かう。彼女からは夏休みのサハラ砂漠旅行のエピソードを聞く。ラクダの背中に跨って、そのままスッと体を起こしたときの、一挙に視界が上昇してひらける感じ。砂漠には道がない。ラクダが刻む一定のリズムの歩行に任せて、延々と続く砂の上を最短距離で進んでゆく快楽。Mさんがそうした砂漠のあれこれを語るのを聞きながら、頭のなかでその光景を思い浮かべていた。わたしは砂漠に行ったことがない。けれどもこれまでに触れてきたさまざまな表象のおかげで、鮮明な映像を脳裏でイメージすることができる。その映像は本物のサハラ砂漠の風景と合致するのか確かめてみたい気がした。

 

9/5 火

 綾さんから護衛隊の詰所で開かれる盆踊りがあるよと誘われたので、よくわからずホイホイと着いていく。地下鉄の駅を出たところで綾さんが「いまジャック・ラングがいたね、あの爺さんもまだまだ元気だなあ」と平然と言い放ったので、わたしは慌てて振り返った。よれたスーツに身を包んで、ゆっくりとした足取りで歩いていたが、いかにも一角の人物という雰囲気。

 ギリシャアメリカ、イタリアと、それぞれのポップソングにあわせた振付けを講師とともに踊る。大方のパリジャンはスノッブなので周囲でワイン片手に談笑しているが、わたしたちは精一杯踊るのに努めた。爽快な気持になって、数週間前のマルセイユからの列車で、きみはダンスをするべきだと思うとジェシカから強く薦められたことを思い出した。確かに自分はいまダンスを必要としているみたいだ。

 

9/6 水

 ラグビー代表チームの元主将たちがどうしてラグビーというスポーツを愛するかと壇上で理由を語るのを舞台袖で聞きながら、それはラグビーでなくとも、どんなチームスポーツにでも当てはまる物言いじゃないかと意地悪な感想を抱いて、ばかみたいに頷く観客たちに軽く苛立ちを憶えた。長い一日を終えてへろへろにくたびれた帰り道で、わたしは何ごとにおいても任意に代入可能な物ごとがイヤなのだと思いあたった。それはいわゆる「普遍性」と似ているようで異なる。ラグビーの魅力を語るなら、集団のスポーツが云々とかいうピントの甘い御託を並べるのでなく、サッカーやアメフトや野球とちがって、ラグビーにしか備わっていない特殊性に迫らなければいけない。と同時に、あの壇上にいたラガーマンたちはきっとラグビーでなくても良かったのだろうとも思う。ともするとダンサーや水泳選手としても大成していたかもしれない。そうした選択はあくまで偶然の導きに過ぎない。けれども事後的にそうした選択の特殊性、その固有性を見い出していくことは、少なくともわたしにとっては非常に大事なことだ。そういう表現にしか心を動かされない。

 

9/7 木

 後輪がパンクしたので近所の小さな自転車屋に駆け込む。ひとりで店を切り盛りするおじさんはいたって無愛想だったが、少しずつ言葉を交わすうちにその職人然とした人柄に惹かれるようになった。この自転車は中古で買ったものかね。このマラトン・プラスというタイヤは、本当にいいタイヤだよ。きみは韓国人かね、それとも日本人か。シマノという日本のメーカーのつくるものの品質はどれも間違いない。

 しかし自転車屋はおもしろい。次から次へといろいろな人たちが店内に入ってくる。若い女の子が近くの住所を尋ねに来たり、アジア人のおばさんがタイヤがパンクしたから買物できなくって困るとたらたらと一方的に不満を垂れながら自転車を預けに来たり。あるいはもう何十年も自転車は乗っていませんという感じの高級なスーツに身を包んだ男性が箒を借りにきて、地面に這いつくばって店の前に停めた車の下に落ちてしまった鍵を取っていったと思えば、入れ替わりでやってきた少年は「これから親友とサッカーで遊ぶんですが、ボールの空気が抜けてしまっているので助けてくれないでしょうか」と礼儀正しく頼みごとをしていた。わたしの自転車の後輪は韓国製のものに換わった。乗り心地はばっちり。

 

9/8 金

 この一週間ほどかかずらっていた原稿を仕あげて地下鉄に乗る。林其蔚のギャラリーに着いた頃には、すでに彼のパフォーマンスは終わってしまっていた。今日がオープン初日だという。林くんの計らいで、展示を見に来ていたワン・ビンに挨拶。パリに来てから少なくとも四度くらいはワン・ビンと同じ場所に居合わせているが、言葉を交わしたのはこれがはじめてだ。とはいえ彼はまったく英語もフランス語も喋れない。わたしが『Youth』は素晴しかったというと、ニコリともせずに、まだあの作品には続きがあるんだと言った。

 一緒に展示を見にきたカミーユと隣の店に流れこんで、互いの夏を報告しあう。ちょうどいまトーキョーのギャラリーでわたしの肖像画が展示されてるらしいんだよねと、カミーユから展示風景の写真を見せてもらう。いいじゃない、似てるじゃないと褒めてみるのだが、画家本人は相当気に入ってるらしいんだけど、わたしは正直あんまりなんだよねと微妙な顔をしていた。しかし肖像画というものは、いったいどれぐらいの割合でモデルの満足のいく出来になるのだろう。思ったより少ないんじゃなかろうか。カミーユはついに来年の春、何年も前から温めていた安部公房原作の短編作品を撮ることに決めたという。2024年3月はちょうど安部公房の生誕100年に当たるはずだと伝えると、彼女は大袈裟に驚いて、これは何かの思し召しだと嬉しそうにしていた。

 わこちゃんたちが南仏の旅行からパリに戻ってきた。仕事があるから早めに寝ると伝えたのだが、初日から愉しくなって深夜まで三人で話しこんでしまう。これからひと月ばかりの共同生活がはじまる。

日誌 | 20230729 - 0731

7 月 29 日 土曜日

 Ólafur Arnalds がアイスランド南部の大自然を舞台に演奏するYouTubeの映像に釘づけになる。この映像の撮られた Hafursey という土地には、1755年のカトラ火山大噴火で逃げ込んだ六人の男たちが残した文字が洞窟の壁にいまも残っているという説明が概要欄にある。太古の昔からの変わらない景観の土地に認められる、ほんのわずかな人間の生きた痕跡。世界にはまだそんな場所があるのかと、それだけで救われる気持だ。アイスランドを旅したいというのはささやかな夢のひとつ。

youtu.be

 

7 月 30 日 日曜日

 数日前にニジェールで軍事クーデタが勃発。フランスへの反発感情が高まり、民主政権を武力で追い出して政権を握るという一連の流れは、国境を接しているマリやブルキナファソの事例とよく似ている。いずれもワグネル社が治安維持で暗躍し、急速に親ロシアを傾いている国々だ。しかも国民たちの多くはこうしたクーデタを歓迎している。ロシアの国旗を掲げた若者たちが路上に火をつけ、フランス国旗を燃やし、フランス大使館を襲撃する。わたしはカフェのテレビで報道を眺めていたが、この日映っていたのもすでに隣国で繰り広げられた既視感のある映像ばかりだった。

 同じようにして去年10月にクーデタのあったブルキナファソでは、大統領の座についたイブラヒム・トラオレがいま市民たちのあいだでカリスマ的な人気を博しているようである。弱冠三十五歳、アフリカ最年少の大統領で、トマ・サンカラの再来との声も聞こえてくる。先日のサミットでもプーチンと握手を交わし、諸悪の根源は西欧にあるのだと力強く宣言したディスクールが話題を集めていた。若きトラオレ大統領のあの不敵な感じは、1970年代にウガンダで独裁と殺戮を繰り返したイディ・アミン大統領の肖像に重なる。わたしはちょうど先月シネマテークでアミン大統領をめぐるドキュメンタリーを観たばかり。ジャーナリストからいくらか突っ込んだ質問をされたときにいちど鼻で笑ってみせてから、口八丁でごまかそうとする姿はそっくりだ。

 友人のブルキナファソ人たちのフェイスブックを覗いてみても、みな熱狂的にトラオレ大統領を支持しているようである。心配になってワガドゥグの友人と電話。あの大統領についてはどう思ってる? ちょっと未来の独裁者という雰囲気もある気がするんだけど、と水を向けてみると、お前はいったい何をほざいてるんだ、どういう資格でそんな馬鹿なことをいえるのかと烈火のごとく怒られてしまった。おれはアフリカ人で、ロシアと運命をともにするんだ。トラオレ大統領はおれたちの希望なんだ。わたしに馴染のある世界史の裏側を垣間見て、わたしは言葉を失ってしまった。

 

7 月 31 日 月曜日

 つい最近、近所の映画館で観たばかりのフェリーニ8 1/2』の冒頭の三分間の映像がYouTubeに上がっていたので何度か観直す。あり得ないほどの画面の充実。もう何から何まで本当に完璧だ。はじめて『8 1/2』を観た大学生になりたての頃、わたしはいまほどの確信をもってこの映画を観れていなかったと思う。

 

 

日誌 | 20230419 - 0422

4 月 19 日 水曜日

 映画館の壁には『Showing Up』先行上映は満席という紙が貼り出されていた。どうにかしてチケットを手に入らないかと懇願する者たちが次々と Grand Action の入口にやって来ては肩を落として去っていく。ケリー・ライカートは、東京にたがわずパリでも熱心に支持されているみたいだ。この映画館はキャリア初期の頃から彼女の作品を紹介しつづけ、ついには劇場のひとつをライカートと名付けたんです、とエネルギーの結晶体のような支配人が誇らしそうに語った。その堂々たる振舞いに圧倒されていると、隣の席の友人が、わたしの耳元で彼女は名物支配人として有名なんだとささやいた。

 『Showing Up』。ポートランドに暮らす駆け出しの彫刻家の肖像。何かあたらしいものが生まれようとしているときのフィーリングが克明に映っていて、わたしはこの小品を愛さずにはいられなかった。上映後にわたしたちの前に姿を現したライカートは、映画監督というよりも、図書館司書といったほうが似つかわしい、とても小柄でチャーミングな女性。観客から作品に込められた政治的な含意について問われると、政治については公衆の面前で語りたくないと断ったうえで、アメリカでは政治そのものが文化となったが、その政治には〈文化〉がないと語った。いったいどういう意味だろうか。わかるようでわからない。しかし彼女の語り口に、わたしはいまいちどこの映画作家を信頼しようと決意した。

 劇場を出て、ソルボンヌで映画専攻の修士学生何人かと話す。修論提出締め切りが近づくなか、きょうはゼミ生たちで誘い合わせてライカートの上映に駆けつけたのだという。映画の修士号を取ってから、どうやって生きていったらいいのかぜんぜんわかんないんだよね、とアメリカ人の女の子が笑いながら話す。ついさっき観たばかりの『Showing Up』のミシェル・ウィリアムズみたいだった。

 

4 月 20 日 木曜日

 昨夜に続いてのライカート特集で『First Cow』。仕事を抜けるのに手間取って上映に数分遅れると、座席がまったく見えないほど暗い画面がしばらく続いた。仏語字幕の白い光を頼りにおろおろと席につく。舞台は19世紀初頭の米国である。『Showing Up』でイエス・キリストを彷彿とさせる気難しい兄を演じていたジョン・マガロは、ここでは開拓者の好青年を演じている。森の茂みで流暢な英語を話す、一糸まとわぬ中国人と会い、やがて二人のあいだには絆が結ばれる。西部劇における百年来の男たちの絆という主題を刷新しようと試みる意欲作。ジョン・フォードがこの映画を観たら何というだろう。

 オルセー美術館で一年間のフリーパスを購入。わたしは36歳以下、かつパリ市の美術館カードも持っていたので、割引が適用されてなんと 20 €。一方の一般入場チケットは 1 枚につき 16 € だ。コロナ前の水準では年間5,000万人の観光客が訪れるパリの文化産業は、裕福な観光客からがっぽり稼いで、市民に対しては文化の機会を可能なかぎり安く提供という精神があちこちに見受けられる。むかしラジオで菊池成孔が「観光食堂」という言葉を紹介していたことを思いだす。

 オルセーの「ミレーからルドンに」という副題が当てられたパステル画を集めた企画展。パステルという画材じたいはダ・ヴィンチの時代に発明されたが、その後十八世紀を経て、十九世紀ごろに色彩の種類が一挙に増えたのだという(パステルは混ぜ合わせて新しい色をつくることができない)。油彩具にくらべて下準備の手間が格段にラクパステルの台頭は、アトリエを飛び出して路上や自然のうちに主題を探した画家たちに好まれたという。二点あったアルフォンス・オズベールという象徴主義の画家の小さな作品をいたく気に入った。リュシアン・レヴィ=デュルメールの神秘的な作品群に一コーナーが捧げられていて、なるほど象徴主義の表現に落ち着いた色合いのパステルがマッチしたのだと合点がいく。パステル画をひとしきり堪能したあとに、帰りしなにマネの部屋に立ち寄ったら、油彩の重さにくらくらしてしまった。たとえば《笛を吹く少年》のような作品でも、パステルに慣れた目で見るとあまりに油彩が重すぎてちょっと胃もたれしそうになる。

Alphonse Osbert, La Muse Du Lac, 1918.

 夜、リュック・フェラーリの音楽を聴きながら、言語についての考えをめぐらせる。移民者が徐々に母国語を忘れ、第一言語が別の言語に置き換わっていくというとき、その過程では何が起きているのか。こうしてひとり夜半に考えごとをする言語までもがまた別の言語体系で組織されるようになる。わたしにとって日本語が失われてしまう事態はまるで現実味がない。しかしこの世界には母国語を喪失してしまう人びとが少なからずいるのだ。

 

4 月 21 日 金曜日

 アパルトマンの正面玄関の鍵が無惨に破壊されていた。強盗でも入ったのかと訝しんでいると、工具を携えた管理人が現れ、昨夜未明にどこかの部屋のパーティで酔っ払った男たちが扉を壊して去っていったと説明した。まったく信じられないね。ぼくはここに来てから10年以上になるけど、こんなことははじめてだ。

 テレビでミシェル・ウエルベックについての特集番組を見る。2001年の「Lire」という雑誌に収録されたインタビューにおけるイスラム差別発言が問題視され、法廷に引っ張り出されたウエルベックは、証言台でウイスキーのボトルを内ポケットから取り出し、聖水のようにあたりにウイスキーを振りかけたあと、ぐいっと一気に飲み干して法廷を退出したという。まさにウエルベック。不用意な物言いになるが、ウエルベックという作家は、フランスでしかあり得ないと思う。

 

4 月 22 日 土曜日

 ライカート特集で『Night Moves』。『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』という邦題にサスペンスを期待した観客は、きっと肩透かしを食らったことであろう。とはいえサスペンスがないわけではなく、むしろその立ち上げと持続は見事というほかない。前半と後半でまるきり様相が異なる構成で、本作はダムの爆破に成功したあと、後半に悲劇へと顛落していく。しかし主人公の三人組の声と喋りかたがいい。ジェシー・アイゼンバーグがぼそぼそと呟く平坦な声。張りのある明るさで聡明さの伺えるダゴタ・ファニングの喋り。そしてピーター・サースガードはどっしりと構えてゆったり喋る。このキャスティングと演出は完璧だった。

 漫画家のカネコアツシの講演会に立ち会う。フランスの某新聞では「日本でもっともパンクな漫画家」と紹介されていたが、セックス・ピストルズに衝撃を受け、パンク少年となった彼は、ザ・スターリン『虫』のジャケットを描いた丸尾末広に影響を受け、やがて漫画家を志すようになったのだという。わたしはショートビデオのためのインタビュアーを仰せつかった。アンチ・ヒーローの肖像。