動的平衡の流れとしての生命への驚嘆 ―― 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

 何年も積読となっていて、本棚の一角に居座りながら、わたしにたいしてちらちらと定期的に自己主張をしていた福岡伸一生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書, 2007)を読んだ。まったくもって素晴しい本だった。

 よい本であるということはかねてより幾度も耳にしていて、だからこそ長きにわたって積読になっていたのだが、今回わたしが意を決して読むこととなったのは、たまたま朝日新聞に掲載されている、福岡伸一の「動的平衡」と題された連載を読んだからだった。「『記憶にない』ことこそ記憶」と題された記憶についての小文。記憶とは、前後の時間的文脈も記憶されてはじめて記憶として成立するのであり、ある出来事の記憶が失われているとするならば、それはその出来事の(1)前後のことは覚えており、(2)その出来事の時点が欠損しているというような形で「記憶がない」とされるのだ、と説明されていた。つまり、「記憶がない」ということが記憶されていてはじめて、「記憶がない」ということを言うことができる。「もちろん、記憶がない振りをするという場合もありうるが」と、責任を訴求された政治家が「記憶がございません」という答弁を繰り返すことへのシニカルな目配せもあった。わたしはその文章に好感をもった。

 ちょうどその記事を読む前夜、心臓移植によって、前の心臓の持ち主の〈記憶〉が新たな主人へと移ったという不思議現象についてのテレビ番組を傍目で見ていた。その現象について訊かれた脳医学の第一人者とされる人物は、「記憶のメカニズムは解明されていない。かならずしも脳が記憶の全てを司っているわけではなく、心臓を含めた他の部位に個人的な記憶が付着しているということもありうる」と答えた。もちろん、ゴールデンタイムのオカルトチックなバラエティ番組だったので、さほど真に受けたわけではないのだが、翌日に福岡伸一の文章を読んでいるとき、昨夜の番組のことが思い起こされたのだった。わたしはそこに、不思議な符号*1を感じてしまったのである。積読を読まないわけにはいかなかった。

 

 『生物と無生物のあいだ』は、分子生物学を専門としている研究者の手によって記された本である。標題が示しているとおり、それは生物についての著作であり、「生命とは何か」という問いへの接近が試みられている。しかし、それはいかにも理系な、生物学の入門書というのとはまた異なる様相を呈している。わたし自身が、目次をひらいてなにより驚くこととなった。「ヨークアベニュー、66丁目、ニューヨーク」「原子が秩序を生み出すとき」「タンパク質のかすかな口づけ」「時間という名の解けない折り紙」というような、文学的な香りのする章題が並んでいるではないか。この本は、じつは生物学の入門書などではないのではないか――。わたしのその疑念は、ある意味では誤っていた。20世紀における生物学の歴史をアカデミックな見地から分かり易く紐解いている書籍であることは疑いようがなく、門外漢であるわたしはこの本でさまざまなことを学んだ。他方、またある意味でそれは正しかった。学術的な入門書というよりは、ひとりの鋭い感性をもった人物の視点によって文学的につづられているエッセイといったほうが良いだろう。この本の出版は、講談社新書でなく、たとえばちくま文庫であったほうが、その外装としてはふさわしかったかもしれないとさえ思う(もちろん、講談社新書を卑下しているわけではない)。

 ニューヨークの街並みとその喧騒についての描写があり、気を抜いているとマルチェロ・マストロヤンニの名が突如として現れ、ボストンの美術館からフェルメールの《合奏》が盗難された事件についての言及があり、「トリバネアゲハ」という蝶の美に魅せられた者たちへの共感がある。読者はそういった描写の美しさに息を呑むことだろう。そして、これは根っからの文系であるわたし自身に戒めとして言い聞かせるのだが ―― 理系の者たちが見ている世界とは、このような文化と隔絶された、内的な論理体系のうちに完結しているような淡白な世界ではけしてない。研究者が人間であり――さらには生命である以上、その研究の内実や、研究を取り巻く環境は、ひとつの〈文学〉になって然るべきなのだ(こんな当たり前なことをのけのけと云う図太い神経がある時点で、文系という人種はほとほと信用ならない)。

 

 生命とは何であるか。生物を無生物から区別するものは何か。先に言及したように、本書はこの問いに貫かれている。あるいは、この問いに取り憑かれた福岡伸一の辿ってきた人生の諸断片が記されている。少年期の昆虫観察、東海岸でのポスドク暮しの貧困、海辺で拾いあげた貝殻にまつわる省察。そうした等身大の研究者の視点から、二十世紀の生物学への接近を試みている。だからこそ、わたしのような門外漢でもするすると読める。たとえば中学生の時分にこの本に出会ってしまっていたら、生物学の道へと進むことを決意していたかもしれない。じっさい、この本の読者のうち、そのような者は少なくないのではないだろうか。

 

 二十世紀の生物学の領野におけるもっとも重要な発見は、遺伝子はDNAであるということを突き止めたことだとされる。その立役者はオズワルド・エイブリーであり、その発見は1930年代にもたらされたとされている。それまで、遺伝情報の伝達をつかさどるのは、たんぱく質のような複雑な機構をもった物質であろうという認識が主流であったが、エイブリーは、核酸という四つの構成単位しか内包できない細胞こそがそれではないかという論文を発表した。その証明には困難が付きまとい、そのさなかでさまざまな研究者からの批判を受けた。だが、かれの確信は揺るがなかった。その理由について、福岡は以下のように推測している。

別の言葉で言えば、研究の質感といってもいい。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるような言い方があるが、私はその言説には必ずしも与できない。むしろ直感は研究の現場では負に作用する。(56)

 みずからの手の試験管の中で揺れている、DNA溶液の手ごたえ。そのリアリティ。それこそが確信の源泉になったのではないか、と。しかし、かれの研究は公には完全に認められることなく、ノーベル賞の栄光に与ることもないままかれは静かにこの世を去った。その時代から少し下り、誰もがエイブリーの認識の正しさが確かめられて以降、さながらゴールドラッシュのように、われ先にと研究者たちが一斉にDNAの構造の解明へと邁進することになった。

 

 「ある発見が大発見なのか中発見なのか小発見なのか、はたまた無意味なものなのかは一体どのようにして決まるのだろうか」と福岡は問う。研究者の世界では、その判断を下すのは、歴史であるなどといった悠長なことは言っていられない。発見は多くの場合学術誌に掲載という形で世に発表される。他の学術誌に遅れをとってはいけない。だが、その発見についての評価を下すことのできる者は誰だろうか。同分野の他の研究者である。したがって、その決定には、ときに我欲と倫理を天秤にかけられることがあり、同時に多分に政治的な駆け引きも含まれることがある、と。

 二十世紀最大の発見とされている、ワトソンとクリックという若き研究者によるDNAの二重らせん構造の発見。1953年の『ネイチャー』に発表された1,000語余りの論文によって、二人はのちに、その共同研究者とともにノーベル賞を手にしたのであった。しかし、その発見は、フランクリン・ロザリンドという寡黙な女性研究者の手がらを剽窃したことに由来するのではないか、という最大の疑惑についても語られていた。その真相はいまだに明らかになっていないらしいのだが、その疑惑には、大きな紙面が割かれており、本書のひとつのハイライトとなっている。このような一連の疑惑の付着した歴史は、教科書には確実に載っていないようなことである。このような現場のリアリティをありありと追体験できるような、非常にスリリングな箇所であった。

 

 ともあれ、かれらの二重らせん構造の論文のなかに、「生命とは自己複製するものである」というような、生命の定義を示唆する一文が出てくる。DNA分子の発見とその構造の解明は、生命のあり方をそのように規定した、と。しかし、福岡はその言明にある程度同意した上で、違和感をも示す。その違和感は、海辺に落ちている貝殻に生命の痕跡を見てとったときの私的な経験によって表明されている。

貝殻は確かに貝のDNAがもたらした結果ではある。しかし、今、私たちが貝殻を見てそこに感得する質感は、「複製」とはまた異なった何物かである。小石も貝殻も、原子が集合して作り出された自然の造形だ。どちらも美しい。けれども小さな貝殻が放っている硬質な光には、小石には存在しない美の形式がある。それは秩序がもたらす美であり、動的なものだけが発することのできる秩序である。(135) 

 シュレディンガーの予言に霊感を受け、ドイツ生まれの生物学者であったシェーンハイマーは、1941年にみずから命を断つ前に、孤独な研究と省察によって、ある命題にたどり着いた。いわく、「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」、と。

 福岡は、シェーンハイマーの「動的状態」という規定に付け加えて、次のように生命を定義し直した。「生命とは、動的平衡(dynamic equiliblium)にある流れである」。わたしたちは、固定的な細胞のかたまりとして、不変の肉体を有しているわけではない。その生誕から終焉まで、つねに細胞レベルの新陳代謝を繰り返し、不断に身体を刷新しながら生きている。それはあたかも、つねに構成する一粒一粒の砂が入れ替わっても形を留め続ける砂の城のようなものである。

 わたしたちの身体が新陳代謝を辞め、細胞が成長を止めてしまったとき、シュレディンガーが指摘したように、それはエントロピーの完了を意味しており、すなわち生物的な死は免れない(エントロピー増大が止まったときに死が訪れるというのは、どういう事態を意味しているのか、わたしにはまだ掴みきれていないのだが)。生命は、それを免れるために、終点がけして訪れることのないような自己刷新の連続であるというのである。

 

 しかし、生命がそのような新陳代謝であり、細胞が不断にこわされてつくり直されてという流れのなかにいるとするならば、なぜ生命は急激に崩壊したり変容せず、その終わりまでゆるやかな平衡を維持することができるのか。その鍵を握るのは、たんぱく質の「相補性」とされる。ジグソーパズルのように、お互いの唯一のパートナーを見つけ出し、連帯をしてゆくたんぱく質の働きのことである。

 そして、本書は、自身が80年代にアメリカの研究所で注力していた、「GP2」と呼ばれるある特殊なたんぱく質の研究についての記述で残りの紙面が埋められている。そのGP2こそが生命を規定するような重大な要素であるに違いないという仮説をもとに、さまざまな実験を重ねられていく。ある日、苦心の結果、ようやく意図していた実験を実現することに成功する。どの細胞にもすべからく見受けられるような「GP2」を欠いた――ノックアウトされた――「ノックアウト・マウス」を作り出すことに成功したのである。あとは、このマウスを観察して不具合を起こすようであれば、「GP2」が生命にとって不可欠な細胞であるということを証明できる。

 だが、思うような結果が得られない。「ノックアウト・マウス」は何の異常もなく、きわめて健康体そのものに成長し、そして他の種と同様に死を迎える。その仮説は見事に裏切られてしまったのだ。その遍在と特色からいって、生命にとって「GP2」が重要な働きをしているのは間違いがない。しかし、「GP2」の存在しない生命体は、なんの異常も示さない。これはいったい、どのような事態が生じているのか。

 

 そこでかれは気づくのだ。それまでの自身の「生命とは何か」という問いに対する認識のナイーヴさに。

生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。(271)

 生命とは、機械のようなものではないのだ。つまり、無時間的/論理的なモデルにしたがって構築されているようなものではない。機械であれば、ひとつのトランジスタ、ひとつの回線が破壊されれば、程度のはあれ、機能不全を起こすだろう。しかし、生命は、ひとたび部品が欠けていることがわかれば、その不可逆的な進化の過程で、その不足を補うようなバックアップシステムが働く。生命は、不断の進化のなかに――時間の流れのなかに――存しているのだ。その意味において、生命は「動的平衡の流れ」に他ならないのである。

時間という乗り物は、すべてのものを静かに等しく運んでいるがゆえに、その上に載っていること、そして、その動きが不可逆であることを気づかせない。

 

 本書は、次のような研究者としての潔い態度表明によって締められている。それはいくらかの諦観であるようにも見受けられるが、生命の神秘への純粋な驚嘆こそが、かれの生を規定する情熱の源泉となるものであると言ったほうが、おそらくは正確なのだろう。

私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。(285)

 

*1:さらにいえば、つい最近まで読んでいた『目の見えない人は世界をどう見るか』という本は、福岡伸一氏の激賞のことばが帯文や標題紙の次の頁に記されていたことももうひとつの符号である