12 月 15 日 木曜日
病み上がりで一週間ぶりに出勤。同僚たちがみな心配をしてくれていた。まだろくに喋ったこともない人もいる職場の同僚たちに、わたしはいきなり病欠者というイメージを植え付けることになった。華々しいデビューを飾っている。お腹を空かせて職場の近くを散歩していると、なにやら良さげなギリシャ料理の惣菜屋を発見。いくつか気になったものを適当に頼んでいったら25ユーロくらい払う羽目になり、レストランで食べるのより高いじゃないか、量り売りは恐るべしと泣きそうになった。そのぶん美味しかったので良し。しかし自分でフムスをつくってみたいのだが、どうやって調理すればよいのだろう。
サン・ラザール駅近くの「Les 5 Caumartin」という映画館で、是枝裕和『ベイビー・ブローカー』(’22)を観にいく。「Les Bonnes Étoiles」というフランス語のタイトルが付されていた。わたしは日本でもこの映画を観に出かけたのだが、気分が乗らずに途中で退席してしまっていたので、満を持してパリでリベンジである。だが、前回退出したのと同じあたりのところで、急に眠気に襲われて完全に寝落ちしてしまった。いいのか悪いのかも判断できないのだが、どうもこの映画とは相性が悪い。
あまりの寒さに凍えながら帰路に就く。2022年1月から11月にかけて、iPhoneで撮っていたフッテージを見返して、映像日誌を編集していく。東京の日々をいろいろと思いだして、それにしてもいい一年だったなと感じ入った。毎年こういう感慨が得られれば、もうそれだけで充分だ。
12 月 16 日 金曜日
キノタヨ映画祭で、ヤン・ヨンヒ『スープとイデオロギー』(’21)を観る。監督自身のオムニ(母)に迫っていくドキュメンタリー。オムニは、在日韓国人として大阪で生まれ、1945年の大阪空襲を受けて済州島に疎開する。日本の降伏にともなって、北緯38度線で国境が引かれ、朝鮮半島は南北に分断されてしまう。南北分断を良しとせず、統一国家の樹立を訴えた島民たちに対し、南の反共団体は容赦なく銃を向け、少なくとも1万4,000人が殺害されたという。その凄惨な事件が生じた土地に居合わせた母は、ずっとその記憶を心の奥底に締まったまま、以後数十年にわたって生きてきた。本作では認知症を患い、徐々に記憶を失っていくオムニにカメラを向け、彼女の奥深くに埋葬された記憶の断片を引き出そうとする。ヤン・ヨンヒ自身のプライヴェート・フィルムでありながら、その向こうに昏い歴史が透けて見えてくる。母の得意料理である鶏のスープ、そのレシピが日本人の新婿に受け継がれていく。そういう作品を「スープとイデオロギー」と名付けたことに痺れた。わたしは「済州島四・三事件」のことも知らなかったし、『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』という彼女の過去作も観なければならないなと思う。
続けてクロージング作品として選出されていたピエール・フォルデス監督『めくらやなぎと眠る女(Saules Aveugles, Femme Endormie)』(’22)を観る。村上春樹の複数の短編を織り混ぜて7章立ての構成とした、良質な大人向けのアニメーション。村上春樹における異化効果のような感覚がスクリーンにも映っていて、わたしは大いに愉しめた。登場人物が全員醜い顔つきをしているのが本当に素晴らしい。フランス公開は控えているが、まだ日本公開は決まっていないらしく、どういう戦略だったらこの種のアニメーションが広まるのだろうかと少し考えた。日本の声優で吹き替えをするというアイデアも出ていたようなのだが、その投資に対するリターンが見合わない気がする。
そのままクロージング・パーティになだれ込む。わたしが発症する前日にワイン・バーでご一緒していた夫婦にインフルエンザを移してしまっていたらしい。あれは地獄だったと苦々しい顔で語っているのを見て、わたしは平謝りするほかなかった。過ぎてしまえばなんともなかったような気もするが、思い返せば確かにあれはわたしにとっても地獄だった。
12 月 17 日 土曜日
パン屋で手紙を書き、本屋で包装してもらい、郵便局で発送する。はたしてクリスマスまでに東京に届くだろうか。
8区のサン・フィリップ・ドゥ・ルール教会に立ち寄る。建築は見るからに新古典主義のきわめて質素なもので、ほとんどの観光客には見向きもされないような類のものだが、わたしはこの質素さに惹かれた。氷点下の寒さに観念したせいかもしれない。案内書きには十八世紀後半に凱旋門をつくったのと同じ建築家によって設計されたとある。扉を開けると案の定だれもおらず、都市の喧騒から一挙に静けさのなかへ連れ込まれる。教会に入ったのは本当に久し振りだ。壁面に何枚も並んでいるステンドグラスの淡い水色にひどく感動を憶え、ひんやりと冷えた一室の椅子に座って、しばらくぼうっとしていた。クポールに描かれている絵画はシャセリオーの晩年の作品だという。暗くてあまりよく見えない。
指が凍り付きながらモンソー公園を散策したあと、地下鉄に乗ってパリ日本文化会館へ。一年間を通じて開催されている『男はつらいよ』全50作品連続上映の第1作の再上映へ向かう。300席近くある会場が大入りの満員だった。寅さんの一挙手一投足に、フランス人ばかりの客席からどっかんどっかんと笑いが起きていて、とても愉しい映画体験になった。さくらの結婚披露宴で、ずっと顰め面を崩さなかった新郎の父親(志村喬)がスピーチで積年の心情を吐露する。その様子に感きわまった虎さんもまた、テーブルクロスで涙を拭いながら新郎新婦に祝福の言葉を掛けていて、いったいなんて美しいシーンなんだろうと、わたしも密かに涙していた。去りぎわは振り返らず潔くという、学も品もないフーテン男の美学。上映が終わってから、わたしは写真係を仰せつかって、集合写真のときに「はい、バター」といってひと笑いを掻っ攫った。あの写真撮影の下りの笠智衆はまったくおかしい。
エメ・セゼールを研究している F さんと落ちあって、彼の行きつけのサン・ミシェルのクスクス屋に向かう。彼はこの三月で長きにわたったフランス生活に区切りをつけ、四月からいくつかの東京の大学で教鞭を取り始めるという。わたしが彼にはじめて会ったのは、大学に入って間もない頃に受けていた立花英裕先生のエメ・セゼールをめぐる授業で、その研究室からの帰り道に、セゼールについて考えるとき、わたしは日本人としては横浜について考えなければならないと思っていると語っていた。立花先生は昨年に亡くなった。わたしにとっても在学中は至るところでお世話になっていた恩師で、こうしてパリに赴任となったことをもっとも知らせたい先生だったので、それが直接伝えることができず本当に残念でならない。
Fさんはある媒体で、フランス語圏文学についての連載を隔月で書いているといっていた。彼にとっての小説を評価するときのクライテリアはあるのかと聞いてみると、二つあって、ひとつは言葉に対する負荷、もうひとつは想像力に対する負荷がどれだけ掛けられているかだという。ともすれば言語そのものが壊れてしまうような閾値で踏み留まること。そしてひとの想像力が及びうるぎりぎりの局面まで羽ばたこうとすること。それから、あともうひとつだけあって、宮部みゆきのような作家の書きもの、つまりはページを繰る手が止まらなくなるようなおもしろいテクストですね、といって彼は笑った。
Weyes Blood というアーティストの『And In The Darkness, Hearts Aglow』という新譜を聴く。普通のオルタナ・ロックなのだが「Grapevine」という曲の、音飾の心地よさに撃たれてしまった。その丸みを帯びたベースの音感や、しっとりしたバスドラやスネアの響き。この数年で音そのものの良さはわりと進化しているんじゃないかという気がする。いい気持ちのまま編集していた映像日記をチェックし、一挙にYouTubeにアップロードした。妙な達成感がある。