ヨーロッパ旅行記 Ⅱ(March, 2018)

3月8日(木) パリ

 日本のおむすびチェーンが海外進出をしていて、新たにパリに店舗をオープンしたそうだ。わたしは、仏留学時代の中国人の友人Oを誘って、オペラの近くにある日本人街の一等地にある店舗を訪れた。10ユーロ(約1,350円)でおにぎりふたつと唐揚げと味噌汁のランチセット。フランスの物価としては適切な価格設定なので、日本の物価と比べてはならないのだが、やはり高いといえば高い。とはいえ、おにぎりは当たるのではないかという気がする。J は、ヨーロッパでのおむすびチェーン展開のプロジェクトを担当していて、おむすびのもつ可能性について語ってくれた。おむすびは、どんな具でも選べるゆえに、ハラルフード、ベジタリアンにも対応できる上、グルテンフリーでもある。日本料理への関心は寿司一辺倒時代を抜け出て、パリでもつぎのレベルへと移行しつつある。とはいえ、かれは必ずしも「日本料理」の一カテゴリとして売り出すのではなく、"Omusubi"という固有名詞として売り出していこうとしていた。かれはおむすびが飲食業界を変容させる将来を見ていた。わたしも、どの程度まで広まるかはさておき、おむすびはそのポテンシャルを有しているのではないかと思う。

 Oと別れを告げたあと、Jとともに UGC Les Hallesで『ブラック・パンサー』を観る。ほかの映画館に比べてもいくらか料金が高いものの、わたしはこのシネコンが大好きだ。どのスクリーンも座席がとにかく居心地よい。映画館の隣にあるプールから漂ってくる塩素のにおいを嗅いだ途端に、パリ時代にここに通いつめた記憶がさまざまに蘇ってくる。『ブラック・パンサー』は、残念ながらわたしの過度の期待を上回るほどではなかったが、マイケル・B・ジョーダンの冴え渡る演技とエンディング・テーマの「All the Stars」(またしてもケンドリック・ラマーだ)に昂奮する。しかしフランス人の笑いどころというのは、何度体験してもよくわからないものだ。まったくおかしくもない箇所で笑い声を立てているひとたちがたくさんいる。異国で映画を観るというのは異文化体験としてぜひ推したい。わたしがパリにいたときは建設中だったLes Hallesのショッピングモールはすでに完成していて、ものすごいひとでごった返していた。これだけひとが集まっている場所は、パリにはほかにはないのではないか。

 そのあと、縁があって席を用意してくれたCamille Bertaultのコンサートへ。12区の Café de la Danse という場所で、わたしははじめて足を運んだのだが、なかなか小洒落た場所だった。彼女は、数年前に友人に宛ててFBにアップロードした、コルトレーンの「Giant Steps」のスキャット動画がバズり、めぐりめぐってめでたくSONYからデビューしたばかりの新進のジャズシンガーだ。生命力のあり溢れた、いいアクトだったと思う。パートナーが日本に留学していたらしく、日本でも活動をしていきたいようだ。可能性はあるような気もするのだが、果たして。近くのFranprixで鶏肉2本とフライドポテトがはいった弁当を3.9€で買う。俗に「Franprix弁当」と呼ばれているらしい。ビールを買い込んでからUberに乗って、19区の友人Cのアパートへ。かれはいまパリの映画学校に通っていて、4月に撮影予定の短編映画の脚本の最終段階を詰めているところだった。日本のラッパーのUZIが、600gの大麻所持で逮捕という驚きのニュースが最近あったのだが、Cは600gぐらいなら一年あればひとりで消費できるでしょうと言っていた。


3月9日(金) パリ

 サン=ミシェルにある「Chez Hamadi」というクスクス料理屋でランチをいただく。ブロシェットがおいしい。日本に暮らしていると、クスクスを食べる機会が少ないのが悔やまれる。クスクスというすばらしい料理は、もっと日本の人口に膾炙してもいいと思うのだが、どうなのだろう。スムールはパスタよりも俄然便利で、お湯で10分弱蒸らすだけで、腹持ちのいい主食がつくれる。胃袋のなかでさらに膨れていくのだ。まずは、日本でスムールを安い価格で手に入れられるようにしてほしい。わたしは以前、東京で1キロのスムールを1000円少々出して購入したことがあるのだが、フランスの価格の10倍近くだものな。クスクスは、Sさんにご馳走になった。Sさんは、パリでコンサルタントとしてばりばり働いている日本人だ。パリという場所における日本人コミュニティはは、どれだけ政府系の仕事を受注できるかという水面下の争いが激しく起こっているらしい。パリの日本人コミュニティの裏事情をいろいろと聞く。 

 「パリで決まって行くところ」といえば、サン=ミシェルの「Gibert Joseph」である。おそらくパリ市内でいちばん大きな古本屋である。数冊の研究書を手に入れた。ここに来るたびに驚くのは、店員の造詣の深さである。今回も哲学書の在庫をラスタヘアーの若い男性店員に聞いたのだが、「あの本は確か5年前に絶版になって…」という知識がすらすらと出てくる。フランス語の小説を久しぶりに読もうと思い、ローラン・ビネの新作『Le septième fonction du langage(第七の言語機能)』を購う。『HHhH』を読んだときに、かれが次回作を書くとしたらいったいどんな内容になるのかと夢想したものだった。

 モロッコの友人Mと二年ぶりの再会を果たし、マレ地区でビールを飲む。2年前にパリに一ヶ月ほど滞在していたときは、なぜかかれと毎日のように飲んでいた記憶がある。2年前に執筆中だったミケランジェロ=アントニオーニについての論文の進捗を聞くと、あれは反故にした、とあっけらかんと言っていた。いまは、ある著名な脚本家と一緒に、モロッコとパリで夏に撮影予定の作品の脚本を執筆しているらしい。夜が更けてきたところで、11区のBataclanのすぐ近くにある友人Lのアパートへ向かう。Lは昨日引っ越したばかりで、ちょうどホームパーティをやっているところらしい。彼女たちはちょうど80年代から90年代のフランスのヒップホップの話に興じているところだった。登場する固有名詞がほとんどわからず、話についていけない。そういえば、はじめての留学中でフランス人に囲まれているときは、いつもこういう感じだったなとひさびさの感覚に苦笑いしながら、ビールを胃のなかに流し込む。あらためてフランス語のコミュニケーションというのは、言語以外のものに大きく頼っているものだな、と彼女たちの口から次々と飛び出す言葉に思った。そのうちのひとりが、コロンビアのボゴタに一年ほど住んでいた経験を話してくれた。わたしは近いうちにラテン・アメリカに足を踏み入れないといけないな、と思う。

 深夜。12区のほうへとバスで向かう。わたしの大学のゼミの後輩Nがパリに留学中で、そちらもホームパーティをやっているところだという。ホームパーティをはしごすることになり、いくらかくたびれながらたどり着く。留学生ばかりが集っていて、英語が飛び交っている。フランス語の調子が出はじめていたところだったので、いくらか物足りなさを覚えて英語に切り替えた。わたしのなかでは、英語とフランス語は、相互補完関係にあって、一方の言語が伸びれば伸びるほど、他方の言語も伸びていく。イギリス人の留学生とショービニズムについて話し込む。彼女はトルコ人の丸めがねの男性と非常に親密な様子だったので、いつから交際しているのかと聞くと、かれらはさきほど会ったばかりだという。「一目見た瞬間、なんだか心を許してしまえて」と口をそろえる。てっきり数か月は付き合っているのかと思った。わたしはNの家に泊まらせてもらう予定だったのだが、Nはいつまで経っても帰ろうとしない。6時ちかくになってようやくアパートへ向かった。モンパルナスの地下鉄の駅前にある好立地なのだが、室内は半壊状態で苦笑した。あれだけ床が抜けるのではないかという恐怖とともに歩いたのははじめてだ。Nは、バーであったという18歳のフランス人の女の子との恋路について、嬉々として話していた。


3月10日(月) パリ

 モンパルナス。わたしのお気に入りの日本料理屋の「Tombo」にいって、かつ丼定食をいただく。店頭に「On fait ni de sushi, ni de sashimi(われわれは寿司も刺身も提供していません)」と但し書きがある。店内はそれなりに込み合っていて、ひとりで食べている客も何人かいたし、テイクアウトのお姉さんもいたので驚いた。日本料理と寿司が等号で結ばれていた時代から、徐々に抜け出しつつあるということだろう。

 この日は、目覚めてからずっと疲弊しきっていて、どこにも行く気にならない。とはいえ休む場所もないので(友人宅を転々とする暮らしはこれがたいへんだ)、身体を引きずるようにしてモンパルナス墓地へと向かい、ジャック・ドゥミの墓へとたどり着いた。かれの墓の隣にはベンチがあって、それはアニエス・ヴァルダが墓参りのために特別な許可をもらって設えたものだそうだ(かつて墓地めぐりをしていたときに仲良くなったおじいさんが教えてくれた)。腰掛けた瞬間、強烈な眠気が襲ってきて、わたしは図らずも2時間ほど眠りこんでしまった。ドゥミ/ヴァルダ夫妻、昼寝のための寝床を提供してくれてありがとう。あなたたちの映画をまた改めて心して拝見させていただきます。

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 Gaumont Parnasse で、ブノワ・ジャコ監督『Eva』を観る。近くに座っていた女の子が途中からスマホを弄りはじめたのだが、わたしもまた注意する気力すら湧かないくらい映画に退屈しきっていた。イザベル・ユペールをまったくうまく使えていないし、ギャスパー・ウリエルの力の入った演技もいささか空回りしていてサムくなっている印象だった。映画のラストで「そんな下品なことはしないでくれよ」と強く願っていたのだが、儚くも願いが裏切られてしまった。

 そのまま L’Arlequin に移動し、ホン・サンス監督『La caméra de Claire』を観る。L’Arlequinのぎしぎしとうるさく軋む椅子に懐かしさを覚える。これまでわたしはホン・サンスの作品をあまり理解できていなかったのだが、この作品ではじめて理解した気がした。図らずとも2作連続でイザベル・ユペールが出演している。カンヌ映画祭の折にカンヌへとやってくる映画関係者の一コマを捉えた小品だが、これがじつにおもしろい。長回しの固定されたカメラは、ときおりなんとも言いがたい絶妙な空気感を捉えてしまっている。その形容しがたい軽妙さには、確かに作家の印が刻まれていたのだった。フランス人の受けがいいのもよくわかる。

 もともと泊まらせてもらう予定だった友人と連絡がつかない。呑気に映画を見ていたら、すでに22時を回っている。わたしは空腹と疲労とに辟易としながら、バーガーキングへと流れついた。バーガーキングのワッパーの旨さにおどろく。マクドナルドのビッグマックセットよりも価格が安い上に、満足度が高い。しかも、思いのほか客層が落ち着いている(パリのマクドナルドは、22時ごろの柄の悪さが尋常ではない)。Jに連絡を取って、ふたたび泊めてもらうこととなった。


3月11日(日) パリ、ブリュッセル

 おそろしくいい天気だ。Jと「Les fleurs de Mai」という13区の中華料理屋へ向かう。ほかの客たちの食べている皿から立つ湯気がたまらず、つぎつぎと運ばれてくる料理がどれも絶品だった。世界の料理談義に花を咲かす。日本食というのは、他の国の料理と比べても、驚くほどの多様性がある。わたしの知るかぎり、多様性という意味では、日本食は世界でいちばん秀でているのではないか。つまり、ひとつひとつの料理が個性の立った料理として、他の料理と被ることなく存立している。そうした料理は、海外から輸入されたものであることが多いのだが、日本人は独自のアレンジを施して「日本食」に変貌させてしまうのだ。中華料理や韓国料理も品数は多いが、その峻別のしやすさという意味ではやや劣るように思われる。とはいえ、これは仮説にすぎない上に、わたしが日本人であるということもあるので、もっと検証を必要とする仮説ではある。世界の料理にまつわるあれこれを考えたり、話したりするのは愉しい。

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 あまりにも天気がよかったので、13区をそのまま散歩する。13区は、いまではパリ最大のアジア人街を擁していることで有名な地区だ。この地区に入った途端に、中華系香辛料の匂いがたちこめている。日曜日ということもあり、子どもがあたりを駆け回っていて、非常に活気のある地区だ。わたしはまだ入ったことはないのだが、「中国ノートルダム教会(Église Notre-Dame de la Chine)」という中華系の信者に向けたカトリック教会がある。Jによれば、このチャイナタウンは、もともとアジア系移民が集中していたのではなく、90年代の再開発でいくつもの団地を建てたところ、図らずもアジア系移民が押し寄せてきて、その結果、徐々に中華街が形成されていったという。しかし、「アジア人と団地」というのは、研究テーマとしておもしろいテーマではないだろうか。わたしの知人で、パリのアジア系移民の研究をしているひとがいる。かれ曰く、フランスではアフリカ系、中東系移民の研究はし尽くされているが、驚くほどアジア系移民についての先行研究はないそうだ。アジア系移民二世、三世は、学校成績の統計データを見ても、人種別ではもっとも優秀な成績を収めているらしい(とはいえ、人種別のデータを公に取ると法に抵触するので、間接的な形でしかデータは出ていないらしいが)。

 そのままセーヌ川を渡り、12区のBercy へと歩く。12区というのはいまの重点的な再開発地区のひとつで、一見するとパリとは思えないような町の光景が広がっている。いちばんの違和感は、隣接する建物がつながっておらず、別個の建物が並んでいるということだろう。わたしははじめて、12区の「Bercy Village」というショッピング・センターに足を踏み入れる。かつての駅舎を改築したのだろう、地面には線路跡が残っている。日曜日ということもあるのだろうが、その盛況ぶりに驚く。パリであって、パリではないかのような場所だ。かつて毎日のように通っていたシネマテーク・フランセーズに立ち寄って、近くのカフェでエスプレッソを飲んだ。ことあるごとにカフェに立ち寄れる文化をほんとうに愛している。フランスで気に食わないことは山ほどあるが、このカフェの文化だけは、日本で恋しくなるもののひとつだ。それから長距離バスのバス停に向かい、ブリュッセルへと経つ。パリではひとと会ってばかりで、いくつか行きたい美術館もあったし、郊外にも足を伸ばしたかったのだが、まったく調子を狂わされた。とはいえ、わたしの世界でいちばん会いたいひと、おそらくパリにいる可能性が高いのだけれど、今回も再会は叶わなかった。かれはブルキナファソで会ったフランス人で、わたしの知っている人間のなかで、もっともすぐれた知性を携えている者だった。かれとの思い出はたくさんある。どうやらかれもすでにブルキナファソを離れているようなのだが、三年前に教えてもらったメールアドレスにいくら連絡をとっても返信が来たことはないし、だれに消息を聞いてもわからないのだ。かれはいったいどこで何をしているのやら。
 
 ブリュッセルに着く。ベルギーは、数年前にブリュッセルの近くの Charleroi という町の空港にトランジットで降り立ったことがある。搭乗口の前で寝落ちしてしまい、飛行機を逃すという失態をしでかしたせいで、不遇の36時間を過ごす羽目になっていた。そのあいだに Charleroi もいくらか見て回ったが、陰惨な雰囲気の町だった。その36時間はわたしの記憶のうちでもとりわけ暗い影をまとっていて、ベルギーの印象自体もあまりよくないのだ。雨と強風のなか、ブリュッセルの夜を少し歩いて回る。まず驚くのはその多言語文化である。ブリュッセルはフランス語とフラマン語の緩衝地点として有名だが、実際に町を歩いていても、各々の言語を話しているひとたちと交互にすれ違う。スーパーの店員がフラマン語を話しているかと思えば、マクドナルドの店員はフランス語でオーダーを取っていたり、エレベーターの言語表記がフラマン語になっていたりと、両言語の峻別の規則がいまいち見えないのでおもしろい。店員同士が、オランダ語訛りの強いフランス語で雑談したりしていて、まるで生活感が透けて見えないのにやや面食らってしまう。予約していたホテルに着いて、寝息の聞こえるドミトリーの部屋で、物音を立てないように静かに眠った。

 

ヨーロッパ旅行記(March, 2018) ― 全三回