日誌 | 20221209 - 1214

12 月 9 日 金曜日
 目が醒めた刹那、やってしまったと悟った。40度を上回る高熱。悪寒が止まらず何重にも毛布にくるまり、突き刺すような頭痛に悶える。喉にも違和感がある。これはコヴィッドかインフルエンザだ。働きはじめの五日目にして職場に休みの連絡を入れている自分自身に力なく笑う。渡航直後は疲労が溜まって風邪に罹りやすいとさまざまな人から脅されていたが、まるでお手本かのような見事なダウンっぷり。

 何度も夢と現を行き来しながら、少し落ち着いたのでマスクを着けてマレ地区の往来に出る。わたしの体調不良とは無関係に、Roisiers 通りは賑わいを見せている。たまに若年層でマスクを着けている人を見かけるたび、わたしと同じ罹患者ではないかと勘繰ってしまう。薬局でコロナ簡易抗原検査キットを手に入れて、食糧を調達して、ふらふらと部屋にもどった。抗原検査は陰性。ひたすら眠り続ける。汗だくになって目ざめると平熱で、しばらくするとまた悪寒がして、熱を測ると高熱に戻っている。人体の不可思議なメカニズムをひしひしと感じる。

 

12 月 10 日 土曜日
 相変わらずの体調不良。とくに朝がつらい。職場の人たちが水と食糧を届けてくれた。やや小康状態に戻ったところで完全防備で地下鉄に乗って、休日も予約なしで診療を受け付けている病院へ。待合室にはわたしよりも体調が悪そうにしている人たちが何人かいた。アジア系の顔立ちをした医師に病状を列挙し、コロナの抗原検査は陰性だったと伝えると、じゃあインフルエンザですねと幾分か投げやりな診察を受ける。検査をしてコロナとわかっても対応が追いつかないのでもうインフルエンザということにしておきましょう。タミフルを処方されて、タミフルのフルとは flu のことだったんだとはじめて認識した。

 ベッドで横たわっていると、隣の部屋から何人かの女性のすさまじい悲鳴が聞こえてきて、思わず飛び起きた。朦朧とする頭のなかで、暴力沙汰だったらどうしよう、警察を呼ばなければならないのではと狼狽えていたのだが、しばらくしてから、いままさにW杯のフランスとイングランド戦が行われていることに気がついた。わたしもテレビをつけてみる。さきほどの叫び声はフランス人の選手がゴールを決めたときのものだとわかった。

 

12 月 11 日 日曜日
 熱は上がったり、下がったりを繰り返す。これだけ体調が悪いと何もできない。テレビをつけると、真っ白い霧に包まれたラグビーのリーグ試合が中継されていた。グラウンドのところまで霧が深く下りていて、そのなかを男たちがボールをもって走り回る様子がかすかに見える。まるで夢のような光景で、朦朧とした意識のなかでうっとりしながら見ていた。

 どうやらまた眠っていたようだ。真夜中に男たちが怒鳴り合う声が聞こえてきて目が醒める。またこんな遅くに何事かと思ったら、隣の部屋でつけっぱなしになっていたテレビからオペラが大音量で流れていた。モーツァルトかなという気がしたが、ぼうっとして何のオペラかはわからない。わたしは眠っているあいだ、どこかの学校で次々と襲ってくるゾンビから逃げ惑う夢を見ていたのだが、このせいだったのかと合点がいく。

 

12 月 12 日 月曜日 
 ようやく平熱に戻ってきたが、まだ時おりひどい頭痛が襲ってくる。発熱してから喫煙していなかったのだが、試しに一本吸ってみようと煙草を巻いて往来に出る。氷点を下回っていてかなり寒い。煙草の味はかなり自分の体調に左右されるのだが、いつもの Amber Leaf の煙草は土の味が強くなっていた。あまり美味しくなくて、途中で消して部屋にもどった。マレ地区はいつものとおり賑わっている。

 東京で撮りためていた膨大な映像フッテージをぼうっと眺めながら、少しずつ編集をはじめていく。かつて写真を撮っていたときもそうだったが、映像のひとつひとつで iPhone を構えていた瞬間の身体感覚が蘇ってくる。とても快い感覚。まずは11月に撮っていた映像をアップロードして、日本にいる恋人と友だちに送った。彼女たちはちょうど一緒に『マルメロの陽光』を観終わったばかりのようで、いくらなんでもエリセの直後にわたしの映像は厳しいものがあると、パリのアパルトマンで病床に臥せりながらひとり思わず苦笑いした。

 

12 月 13 日 火曜日
 体調はほとんど恢復した。一時は本当に死にそうなほどつらかったので、人間のレジリエンスには驚くほかない。

 エクス=アン=プロヴァンスに住んでいたころのコロンビアの友人がボゴタでマカロンの店を開いたと、アメリカの友人からメッセージで知らされた。あのエクスの大広場にあるひらけたカフェのテラスで、いつもきまって手巻き煙草を燻らせながら赤いハードカバーのバルザック全集を片っ端から読んでいた男が、まさかマカロンの店をひらくとは。かつて彼はパティシエの専門学校に通っていたとは聞いていたが、人生なにがあるかわからない。

 夜、フランスとモロッコの準決勝の試合がはじまる直前のパリを三十分ほど歩く。明らかに街は興奮で浮き立っていた。バーというバーは人で溢れかえり、食材を買い込んだ袋を抱えて急ぎ足の者たちとすれ違う。だれもがうわずった表情を見せているなか、わたしはいそいそとピガールの La Boule Noire というライブハウスをめざす。遡ること何年か前、すぐ隣にある La Cigale という場所でカマシ・ワシントンのコンサートを最前列で観たことがあった。

 会場に入ると、ほとんどがらがらで思わず立ちすくむ。すでに開演時刻になっているはずが準決勝の試合開始時刻と重なっているためか、数えるほどしか人がいない。けれども辛抱強く待っていると、ぽつりぽつりと客がやってきて、ようやくライブがはじまった。はじめに出演していた Milena Leblanc というアーティストは思わぬ収穫で、一見すると日本でいう地下アイドルのような感じなのだが、よくある女の子を切り売りする方向性ではなく、ただただ元来の愛らしさが漏れ出ているといった趣で、観客みながその魅力に射抜かれていた。あたたかな空間。Moodoïdは滝のように汗をかいていて、彼のメイクが落ちないか心配になる。そのあとに続いた Sofie Royer ははじめて知るアーティストだったが、彼女は完全に倒錯していて危険な状態にあると思った。ステージには彼女のほかに、赤鼻をつけたタキシードの男がうろうろしていて(誰?)、演奏が終わるたびにいまの歌はよかったとか、やっぱり君は最高だとか、いらないコメントをしたりDJ デッキから拍手や歓声のボタンを打ち込んだりしている。これがギャグとしておもしろかったらいいのだけれど、だれがどう見ても完全にサムい。そのあとのZombi-Chang 目当てでいったのだが、あまりにも見ていられなくて途中で帰ってしまった。

 準決勝はフランスが勝利を収めたようだ。あちこちで警察官が巡回していて、わたしも敗北を喫したモロッコ人が暴れまわっていないかと恐々としていたが、なんてことはなかった。至るところでフランス人が祝杯をあげていた。

 

12 月 14 日 水曜日
 マレ地区のアパートを立ち去らなければならず、サン・ラザール駅の近くの短期アパートに移動。大方の荷物は同僚宅に預かってもらっているので、大きなスーツケースを転がして移動する。六年ほど前、ややあってすぐ近くのチュニジア人の家庭に一か月ほどホームステイしたことがある。山羊の頭を丸々とオーブンで焼いたチュニジア料理を供してもらったのが懐かしい。わたしはこのホストファミリーとはうまく折り合いがつかず、あの一か月は毎晩遅くまで遊び呆けていた。夜更けにレンタル自転車に乗ってオペラ通りを北上して家にもどって、眠りに着いているファミリーを起こさないよう物音を立てずに自分の寝室へと忍びこむ毎日。

 散歩の道すがらで惹かれたスタイリッシュな雰囲気のアフリカ料理屋に入って、甘めに味付けしたバナナを添えた牛肉の炒飯のようなものを食べる。Chêne という出版社が刊行した「青」を使った美術作品を集めたカタログを読み進める。人類がいかに青色と出会い、その色を美術作品に取り入れていったかという、さまざまな色調の青をめぐる美術史。青は空や海の色で、しばしば哀しみの表現に使われながらも、平和や希望を表象することもある。そうした青の多面性が古代美術から現代アートの作品を通じて紹介されていく。わたしはジョットの《ヨアキムの夢》という十四世紀初頭のフレスコ画に特に惹かれた。イタリアのパドヴァに構えるスクロヴェーニ礼拝堂の一角にあって、天井は同じ色をもちいた他の作品で埋め尽くされているという。ヴェネツィアにいくときはいつもパドヴァを素通りしてしまっていたのだが、いつかかならず足を運ぼうと心に決めた。

ジョット《ヨアキムの夢》1303-1305, スクロヴェーニ礼拝堂(イタリア・パドヴァ