4 月 19 日 水曜日
映画館の壁には『Showing Up』先行上映は満席という紙が貼り出されていた。どうにかしてチケットを手に入らないかと懇願する者たちが次々と Grand Action の入口にやって来ては肩を落として去っていく。ケリー・ライカートは、東京にたがわずパリでも熱心に支持されているみたいだ。この映画館はキャリア初期の頃から彼女の作品を紹介しつづけ、ついには劇場のひとつをライカートと名付けたんです、とエネルギーの結晶体のような支配人が誇らしそうに語った。その堂々たる振舞いに圧倒されていると、隣の席の友人が、わたしの耳元で彼女は名物支配人として有名なんだとささやいた。
『Showing Up』。ポートランドに暮らす駆け出しの彫刻家の肖像。何かあたらしいものが生まれようとしているときのフィーリングが克明に映っていて、わたしはこの小品を愛さずにはいられなかった。上映後にわたしたちの前に姿を現したライカートは、映画監督というよりも、図書館司書といったほうが似つかわしい、とても小柄でチャーミングな女性。観客から作品に込められた政治的な含意について問われると、政治については公衆の面前で語りたくないと断ったうえで、アメリカでは政治そのものが文化となったが、その政治には〈文化〉がないと語った。いったいどういう意味だろうか。わかるようでわからない。しかし彼女の語り口に、わたしはいまいちどこの映画作家を信頼しようと決意した。
劇場を出て、ソルボンヌで映画専攻の修士学生何人かと話す。修論提出締め切りが近づくなか、きょうはゼミ生たちで誘い合わせてライカートの上映に駆けつけたのだという。映画の修士号を取ってから、どうやって生きていったらいいのかぜんぜんわかんないんだよね、とアメリカ人の女の子が笑いながら話す。ついさっき観たばかりの『Showing Up』のミシェル・ウィリアムズみたいだった。
4 月 20 日 木曜日
昨夜に続いてのライカート特集で『First Cow』。仕事を抜けるのに手間取って上映に数分遅れると、座席がまったく見えないほど暗い画面がしばらく続いた。仏語字幕の白い光を頼りにおろおろと席につく。舞台は19世紀初頭の米国である。『Showing Up』でイエス・キリストを彷彿とさせる気難しい兄を演じていたジョン・マガロは、ここでは開拓者の好青年を演じている。森の茂みで流暢な英語を話す、一糸まとわぬ中国人と会い、やがて二人のあいだには絆が結ばれる。西部劇における百年来の男たちの絆という主題を刷新しようと試みる意欲作。ジョン・フォードがこの映画を観たら何というだろう。
オルセー美術館で一年間のフリーパスを購入。わたしは36歳以下、かつパリ市の美術館カードも持っていたので、割引が適用されてなんと 20 €。一方の一般入場チケットは 1 枚につき 16 € だ。コロナ前の水準では年間5,000万人の観光客が訪れるパリの文化産業は、裕福な観光客からがっぽり稼いで、市民に対しては文化の機会を可能なかぎり安く提供という精神があちこちに見受けられる。むかしラジオで菊池成孔が「観光食堂」という言葉を紹介していたことを思いだす。
オルセーの「ミレーからルドンに」という副題が当てられたパステル画を集めた企画展。パステルという画材じたいはダ・ヴィンチの時代に発明されたが、その後十八世紀を経て、十九世紀ごろに色彩の種類が一挙に増えたのだという(パステルは混ぜ合わせて新しい色をつくることができない)。油彩具にくらべて下準備の手間が格段にラクなパステルの台頭は、アトリエを飛び出して路上や自然のうちに主題を探した画家たちに好まれたという。二点あったアルフォンス・オズベールという象徴主義の画家の小さな作品をいたく気に入った。リュシアン・レヴィ=デュルメールの神秘的な作品群に一コーナーが捧げられていて、なるほど象徴主義の表現に落ち着いた色合いのパステルがマッチしたのだと合点がいく。パステル画をひとしきり堪能したあとに、帰りしなにマネの部屋に立ち寄ったら、油彩の重さにくらくらしてしまった。たとえば《笛を吹く少年》のような作品でも、パステルに慣れた目で見るとあまりに油彩が重すぎてちょっと胃もたれしそうになる。
夜、リュック・フェラーリの音楽を聴きながら、言語についての考えをめぐらせる。移民者が徐々に母国語を忘れ、第一言語が別の言語に置き換わっていくというとき、その過程では何が起きているのか。こうしてひとり夜半に考えごとをする言語までもがまた別の言語体系で組織されるようになる。わたしにとって日本語が失われてしまう事態はまるで現実味がない。しかしこの世界には母国語を喪失してしまう人びとが少なからずいるのだ。
4 月 21 日 金曜日
アパルトマンの正面玄関の鍵が無惨に破壊されていた。強盗でも入ったのかと訝しんでいると、工具を携えた管理人が現れ、昨夜未明にどこかの部屋のパーティで酔っ払った男たちが扉を壊して去っていったと説明した。まったく信じられないね。ぼくはここに来てから10年以上になるけど、こんなことははじめてだ。
テレビでミシェル・ウエルベックについての特集番組を見る。2001年の「Lire」という雑誌に収録されたインタビューにおけるイスラム差別発言が問題視され、法廷に引っ張り出されたウエルベックは、証言台でウイスキーのボトルを内ポケットから取り出し、聖水のようにあたりにウイスキーを振りかけたあと、ぐいっと一気に飲み干して法廷を退出したという。まさにウエルベック。不用意な物言いになるが、ウエルベックという作家は、フランスでしかあり得ないと思う。
4 月 22 日 土曜日
ライカート特集で『Night Moves』。『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』という邦題にサスペンスを期待した観客は、きっと肩透かしを食らったことであろう。とはいえサスペンスがないわけではなく、むしろその立ち上げと持続は見事というほかない。前半と後半でまるきり様相が異なる構成で、本作はダムの爆破に成功したあと、後半に悲劇へと顛落していく。しかし主人公の三人組の声と喋りかたがいい。ジェシー・アイゼンバーグがぼそぼそと呟く平坦な声。張りのある明るさで聡明さの伺えるダゴタ・ファニングの喋り。そしてピーター・サースガードはどっしりと構えてゆったり喋る。このキャスティングと演出は完璧だった。
漫画家のカネコアツシの講演会に立ち会う。フランスの某新聞では「日本でもっともパンクな漫画家」と紹介されていたが、セックス・ピストルズに衝撃を受け、パンク少年となった彼は、ザ・スターリン『虫』のジャケットを描いた丸尾末広に影響を受け、やがて漫画家を志すようになったのだという。わたしはショートビデオのためのインタビュアーを仰せつかった。アンチ・ヒーローの肖像。