フランスにおける「映画館のサブスク制度」(「Arthouse Press」)

 コミュニティシネマセンターが運営する「Arthouse Press」に、フランスの映画館のサブスク制度についてのレポートを寄稿しました。月額20ユーロそこそこで、シネコンから名画座まで、パリのほとんどの映画館で映画が見放題になるという夢のような制度です。兼ねてからいったいどういう仕組みで成り立っているんだろうと疑問に思っていたので、自分にとってもいい勉強の機会になりました。よろしければご一読を。

arthousepress.jp

日誌 | 20230415 - 0418

4 月 15 日 土曜日

 カレーにいんげん豆は相性が悪いと学んだ。チーズ屋とパン屋に仕入れにいったら、どちらの店でも目の前に並んでいた客が、わたしが頼もうとしていた組合せどおりに頼んでいて、いくらかバツの悪い思いをしながら全く同じ注文をする。まるで観光客みたいだ。この土地で暮らし始めてから四ヶ月経つが、まだどこか観光客だという気分が抜けない。いつになったら自分の街だという感覚になるのだろう。果たしてそんな日は来るのかどうかもよくわからない。

 シャイヨー国立舞踊劇場までぜえぜえと自転車を漕いで、二夜連続で麿赤兒とフランソワ・シェニョーの『ゴールドシャワー』を観劇。八十歳の暗黒舞踏家と四十歳のコンテンポラリー・ダンサーの身体のうちで、あらゆる二項対立が融解している。千秋楽を無事に終えた二人のカーテンコールに拍手を送りながら、理想郷とはわたしたちを分け隔てる境界線のない世界のことであって、その景色はこんなにも美しいのかと感動を憶えていた(カーテンコールでニーノ・ロータの『8 1/2』を流すのは反則だ)。

 しかしフランソワ・シェニョーには魅惑させられっぱなし。今日も深緑の三角帽子を被り愛犬を抱えてブラッスリーに現れたフランソワから、数年に及ぶ麿赤兒との協働についていろいろと聞いた。わたしの質問にたいして「最初にマロの身体に触れたとき」と答えはじめていたのが印象に深かった。ダンサーにとって、触覚こそが何ごとにも先立つのだと言わんばかりだ。

 

4 月 16 日 日曜日

 毎週のこととは言え、この日のブニュエルのシネクラブに集っていたのは品のいい高齢の紳士淑女ばかりだった。上映作品は『銀河』(1969)。この人たちはみな無神論者なのだろうか、こんな涜神的なフィルムを見ても大丈夫なのだろうかと、余計な心配をしてしまう。はるばると南仏からサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼の旅に出た二人が、あと一歩で聖地に踏み入れようというとき、デルフィーヌ・セイリグ扮する妖艶な娼婦の誘惑に負けてへいこらと踵を返してしまう話。ある意味『ビリディアナ』とまったく同じ結末を辿るとも言える。

 まだコートは手放せないが、それでもこの日の陽気はとても心地がよかった。十九世紀の歴史家から取った名前の通りを歩いていると、よく晴れた日曜日らしい光景につぎつぎと出くわす。道端にキャンバスを置いて油彩で肖像画を描いている老人。両親に見守られながら馬の形をした自転車に乗ってはしゃぐ少年。水路の両脇にずらっと並んで腰かけている人たちはめいめいが談笑に耽っていた。これから本当にいい季節が来るのだと、このところ塞ぎ込みがちだった気分もいくらか明るくなる。

 松井宏さんと待ち合わせて、Colonel Fabian 広場そばの Gunbo Yaya というアメリカ料理屋で昼食。周囲を見渡すと、どの皿もくすんだ黄色の食べものが乗っている。スパイスで味付けされたチキンを挟んだワッフルに、わたしも恐る恐るメイプルシロップをかけて頬張った。辛さと甘さがまじわらずに拮抗している。はじめての味覚におどろきながら、これは案外いけますね、としゃべった。

 解散してからひとりでパリ市営の現代美術館に向かい、閉館までの三十分ほどの時間をマティスの部屋で過ごす。1930年代初頭に制作された三点の《ダンス》。はじめの一点は、バーンズ博士の求めに応じてつくられ、フィラデルフィアのバーンズ財団の美術館の壁画として飾られているというが、残る二点はこのパリの美術館が所蔵している。わたしは部屋の入り口に途中でキャンバスの寸法を誤っていたため未完成のまま放棄されたほうの《ダンス》に強く惹かれた。鉛筆の跡も残ったままで、ほとんど淡い青色と灰色の二系統の色で構成されているが、ダンスの運動性がきわだった傑作だと思う。むしろ塗り残しの白色が広がるからこそ、ダンスを踊る人たちの運動の一瞬を切り取っているという印象をよりつよく与えているのかもしれない。見る者の側に視線の運動性を生み出すセザンヌとちがって、マティスの絵画はキャンバスから躍動感が溢れ出ている。わたしに退館をうながした美術館のスタッフと少し話して、オランジュリーでいまマティスの展示が組まれていると教えられた。すっかり忘れていた。

 近所のカフェに入って、ガリマール社から出されているジャン・ジオノ『木を植えた男』を読む。南仏の人里離れた荒廃した高地で暮らす、妻と息子に先立たれた孤独な老人が、来る日も来る日もどんぐりを植えつづけ、十数年のときを経て、やがて辺り一帯が森となる。わたしはこの三十頁余りの掌編に慰みを憶えて、二度、三度と繰り返し読んだ。

 

4 月 17 日 月曜日

 二人でトイレの扉を押さえながら、暗がりのなかの麿赤兒の立ち小便を見守った。わたしたちはこれこそまさに「ゴールドシャワー」だときゃあきゃあ盛りあがっていると、麿赤兒は「立ち小便する男の後ろ姿ほど情けないものはない」と恥ずかしそうにいった。彼らは明日からブルターニュに旅行に出かけるのだという。

 Reflet Médicis で川島雄三『女は二度生まれる』。最終回となった上映後の討論で、たとえば50年代に撮られた成瀬巳喜男の『流れる』の芸者には救いがあったが、この映画の若尾文子はまったく成長をしていないように見えてがっかりしたという観客からのコメントにたいして、クレモン・ロジェはだからこそこの映画はおもしろいのだ、最後に上高地の駅でひとり佇む若尾文子の佇まいこそが、川島雄三のモデルニテではないかと答えていた。

 いつものとおり映画館の向かいの店に流れこむ。今夜もカウンターに腰掛けて読書に耽っている青年がいた。ちらりと書物に目をやるとヘブライ語が書かれている。わたしはなんという作家の本かと聞いてみると、彼は面倒くさそうに「チェルニホフスキー」とひとことだけ呟いて、ふたたび読書を再開した。

 別のテーブルにいた知人がお代を払わずに帰ってしまったと、わたしたちのもとに店員がやってくる。代わりに支払いを済ませると、サービスでウィスキーのショットを三杯供してくれる。わたしたちは最後にくいっとショットを飲み干して、しずしずと帰路に着いた。

 

4 月 18 日 火曜日

 フランスの柔道育ての父と称される粟津正蔵をめぐる講演会に立ち会う。フランスで生まれ育った息子が登壇して、わたしは柔道の専門家ではないので、父についての個人的な思いでを語りますと断ったあとで、数十分にわたって個人的な家族の写真をスライドショーで紹介しつづけていた。父の正蔵は1950年にフランスにわたった。最愛の妻とあいだにわたしや弟が生まれ、やがてわたしたちにもこの国で家族ができて、さらに子どもたちもまた親となった。ありふれた一族の話で、わたしたち聴衆にとっては、ほとんどどうでもよいような話だった。けれどもその凡庸さが、なんとも言いがたい感動をもよおすのだった。この日はまさに粟津正蔵の生誕100年に当たる日だった。正蔵も浮かばれていることだろう。

日誌 | 20230121 - 0127

1 月 21 日 土曜日

 一年にわたって開催された「男はつらいよ」全50作品連続上映は、この日のシリーズ50作目にあたる『おかえり 寅さん』('19)上映でひとつの区切りを迎えた。今日も会場には二百人近くの観客が詰めかけている。作品上映前にはフランスで山田洋次についての書物を刊行したクロード・ルブランが登壇。そのまま日本のテレビ局クルーの取材に立ち会う。クロード・ルブランはカメラに向かって熱弁を振るう。山田洋次は小津・黒澤世代と是枝・濱口世代をつなぐミッシング・リンクであり、フランス文学史でいえば「忘れられた作家」という意味でモリエール、喜劇調で風俗を描くという意味でバルザックと比較できるだろう。わたしはこの大胆な発言をカメラの隣で聞きながら、日本の民放局はこの発言箇所を使うべくもなかろうと思う(案の定、三十分ほど喋り通していたが実際に放映で使われたのは5秒に満たなかった)。そのあと何人かの観客にインタビューを試みた。実際に聞いた人たちはいずれもこの特集で10作品以上の『男はつらいよ』を観たという。みな晴れやかな顔で語っていたのが印象的だった。

 Kindle Paperwhite開封。テーブルにタブレットを置いて夕食を取りながら読書ができる。紙の本は片手で支える必要があるけれど、Kindle ならページを繰るときだけ指一本のタップで事足りる。これは大変に便利である。一方で、小説を読み進めていると「●●人がハイライトしています」という案内とともに文中にあらかじめ点線が引かれている箇所に何度かぶつかった。即座に嫌悪感を抱き、大事な部分ぐらい自分で決めさせてくれ、いったいなんて最悪な機能なんだと憤慨していたのだが、冷静になって思い返すと、およそ10年ほど前だろうか、ちょうど出始めの Kindle の使用感を試したときにこれこそインターネットの未来だと感動を覚えた記憶が甦ってきた。あれはまだわたしたちがインターネットの夢を無邪気に信じることのできた時代。東浩紀が『一般意志2.0』を書けた時代とも言える。この10年で状況は様変わりしてしまった。

 

1 月 22 日 日曜日

 プチ・パレで開催されているアンドレ・ドゥヴァンベの回顧展に行く。ボナールと同じ1867年に生まれ、生涯にわたってパリを拠点に活動し、1944年に没した画家。当時は人気画家・イラストレーターだったが、没後まもなくに回顧展が組まれたきり、半世紀以上にわたって美術史から忘却されていたと説明がなされている。わたしもこの展示ではじめて名前を知ったのだが、ただちに気に入るところになった。あの油絵の厚み、あの刷毛の動き、あの色と形。これこそが絵画を見ることの喜びだ。自動車、飛行機、地下鉄、二十世紀初頭に登場した乗り物がモチーフとしてよく描かれるが、イタリアの未来派のようなイデオロギーはなく、こうした新しい乗り物がパリ市民たちの生活の風景をどのように変容させているのかということに、その市民のひとりとして興味があるようだった。ポートレートパリ・コミューンの場面を切り取った絵画も押しなべて素晴しく、こんな偉大な画家が長く忘却の憂き目に遭っていたことが信じられない。大満足でプチ・パレを後にした。

André Devambez, Le Lever (Valentine, dite Friquette, la fille de Devambez, s’habillant), 1917. ドゥヴァンべの娘を描いたもの。生涯にわたって家族の肖像画も描き続けていた

 レピュブリック広場に移動。広場ではちょうど旧正月を祝うセレモニーが行われていた。パリに住む華僑の人たちが、どこからともなく赤い服装を身につけて集まってきている。わたしは近くの抹茶屋で待ち合せていた N さんに会う。彼女は日本の某有料テレビ局に籍を置きながら、社内制度をつかって留学に来ているという。ソルボンヌの修士課程の授業の様子を聞いているうちに、わたしも再び勉強をしたいという気持が沸々湧いてきた。抹茶を飲んで、餡子を食べたあと、彼女のお気に入りだという11区の刀削麺を供する店にいく。たった8ユーロで、温かい食事にあり付けたことに感動。奥の席にはおじさんが陣取っていた。彼は来るたびにあの席に必ず座っているらしい。

レピュブリック広場の旧正月祝い

 N さんの導きに従って、Cite Universitaire の日本館を訪れ、深田晃司監督『歓待』(’10)を観る。青年団の役者が勢ぞろいで観ていて楽しい。脚本はとてもよくできている一方で、その脚本に縛られすぎているようというのが第一印象。会話を優先するがあまり、カメラワークの切味が鈍くなってしまっている。上映後に作品を選定したソルボンヌの留学生と話していたのだが、運動神経が鈍いというわたしの表現は彼女はむっとさせてしまったようだった。日本館のシネクラブにはいろいろな人が来ていた。蛙の生態について研究をしている女の子。あえて日本館の大学寮を選んだブラジルの陽気な留学生。幾何学を専攻する男の子はイタリア出身のフリオリ語話者だった。じつはパゾリーニはフリオリ語はあまりしゃべれなかったという話を聞く。だれもがわたしより年下で、なによりも若々しくて、自分は年を取ったなと感じる。

 

1 月 23 日 月曜日

 平日は出勤前に毎朝のように通うカフェで、エスプレッソとパン・オ・ショコラを注文し、カウンターで立ちながら Kindle で本を読む(席に座るよりもカウンターで立ったほうが安いのだ)。会計を終えて外で煙草を吸っていると、わたしのほうへ擦り寄ってくる馴染みの黒犬。この犬を撫でていると、パリに来てから一か月半ほどが経過して――とはいっても二週間はニューヨークにいたのだが――ようやくこの街の生活を愛しはじめているという実感が胸もとにゆっくりと降りてきた。今日もひどく冷え込んでいて、指がかじかじんでいる。

 家に帰ってトマトソースで和えるクスクスを準備しながら、「菊池成孔の粋な夜電波」のアーカイブを久し振りに聴く。シミュラークルに回収されることを免れたクラシック音楽特集。21世紀のクラシック音楽にとって「ポップ」をどう考えるかはもっとも大きな問題なのだという。クスクスはわりとうまくできた。

 UGC Rotonde でマーティン・マクドナー『イニシェリン島の精霊』を観る。1920年代のアイルランド大自然と内戦を背景に描かれる大親友の突然の仲たがい。一見すると妙な力学をもったドラマを追っていくにはしばしの忍耐を要するが、とても豊かな射程をもっている作品だ。『スリー・ビルボード』ほどの感動は憶えなかったが、この監督は追いかけ続けなければいけないと思う。

 

1 月 24 日 火曜日

 このアパートに住み始めてから、ずっと食器用洗剤で衣服を洗っていたことに気がついた。衣服用洗剤にしか見えなかったので油断していた。これまでの衣服の仕上がりに不満をもったことは一度もなかったが、慌ててスーパーに洗剤を買いに行った。少し大きめの容器のものに1000円くらい払う。日本に比べるとこうした何でもない日用品や消耗品が高くて焦る。

衣服用洗剤にしか見えない食器用洗剤

1 月 25 日 水曜日

 職場で制作しはじめた YouTube の新しい動画シリーズのタイトルを同僚たちと議論。正味二時間ほど、フランス人からして響きのよさそうな日本語の単語を挙げていった、これとしっくり来るものがない。たとえばわたしは「Tobira」はどうかと提案すると、政治家のクリスチャーヌ・トビラを連想させるからと即刻却下された。話していて気がついたのだが、日本語は「近くでじっと見る」ことを意味する語群が手薄だ。フォーカス、ズーム、クローズアップ。こうした外来語は即座に思いつくが、日本語では? 漢語ではあっても、大和言葉は? ひょっとすると「近くでじっと見る」こと自体が日本文化とは縁遠い行為だったのではないかという気がした。

 都市音楽家のケンちゃんがブリュッセルから長距離バスに乗ってわたしのもとを訪ねにきた。彼は春からヨーロッパに移住するためにいろいろな準備に明け暮れているのだという。本屋が好きで仕方がないというケンちゃんと一緒に、今週末にオープンするという 7 区の「Pharmacie des âmes(魂の薬局)」という名前の本屋に足を運ぶ。先日知り合ったばかりの青年が店主で、薬局だった物件を居抜きにした本屋。「本を処方する薬局」といって笑っていた。開店間際の店内には薬局の面影が残っていた。わたしがつくったアフリカ映画のカタログも置かせてくれといわれて、スパイク・リーが表紙の雑誌の隣に置いてもらった。

店主は「ONE PIECE in one piece」といっていた。「魂の薬局」にて

 ブリュッセルから来た人をパリのどこに連れていったらいいのかわからない。ケンちゃんはブリュッセルはパリのミニチュア版だと表現していた。逡巡した挙句、わたしたちは地下鉄に乗り込んで Belleville のあたりに向かった。通りがかった「Le Monte en l'Air」という小さな書店に入ってみると、ちょうどイベントが開催されていた。書店員に聞くと、「Les artistes pouvent-iels tout dire ?(芸術家はなにもかも言ってしまえるのか?)」という女性の芸術家たちが各々の状況を語るアンソロジーの出版記念イベントだと教えられた。登壇していた黒人の女性がセクシュアル・マイノリティを主題にした作品がひとつあればいいというわけではない、その作品だけでマイノリティ性は語りつくせないし、何も代表していないのだからと言った。そして黒人女性の性生活はもっとも表象されていない領域だとも語っていた。

 この夜は最終的に先週と同じ Lieu-dit に流れついて(ここのフライドポテトはかなりの旨さ)、ケンちゃんが仕事を進めているあいだ、わたしはほかの客たちと喋っていた。きみは 7 区なんて死んだエリアに何の用があって住んでるわけ? 早くこっちに引っ越してきたほうがいいよ、と妙齢の女性が愉しげに喋っていた。

 

1 月 26 日 木曜日

 わが家に泊まったケンちゃんと解散。これからフォンダシオン・ルイ・ヴィトンクロード・モネジョアン・ミッチェルの展示を見にいくといっていた。彼とは昨夜から喋りぱなしだっただが、置かれている状況や考えていることに共通点が多くて、わたしにとってもとても楽しい一日だった。パリかブリュッセルか、はたまたどこかでまた会おうと再会を誓って解散。店で彼が頼んでいた「Garçon !」という炭酸飲料が異様に美味しかった。

 夜は Zoom で日本文学読書会。東京にいたころも毎月開催していたが、こちらでも欧州の各地に散らばっている同僚たちを誘って読書会を続けられることになった。それぞれの都市の暮らしの様子が伺えて楽しい。初回の課題本には長谷敏司プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を選んだが、わたしも含め参加者からは軒並み低評価だった。AIを埋め込んだ義足のコンテンポラリーダンサーを主人公に据えて〈人間性〉とは何かを問うという設定には惹かるのだが、あまりに素朴すぎる文体がまったく受け入れられない。まるで論文のように、あらかじめ用意された結論に論理的に到達しようと試みている。文学の真髄というものがあったとして、それはえてして本筋とは無関係の枝葉や寄り道に宿るのではないか。しかしエクリチュールとしてダンスの肉体性を表現することに成功した小説はいったいどれぐらいあるのだろう。スポーツ小説ならあっても、ダンスに限って言えば、にわかに好例が思い浮かばなかった。

 インスタントの味噌汁を飲もうと備え付けの家電を探る。やかんだと勘違いして火に掛けたものはじつは電子ポットだった。ゴムの部分が盛大に燃えている。わたしは大慌てで火を消した。焼けたゴムのすえた臭いが部屋に充満する。住みはじめてから一か月もせず、あやうく火事を起こすところだった。

 

1 月 27 日 金曜日

 男性向け風俗店で働いている夢から目醒める。自分の身体を売ることの不安に苛まれたやけに生々しい夢。

 パリを拠点に活動するピアニストの中野公揮のコンサートに立ち合う。クラシックと電子音楽の融合を試みている若いミュージシャンで、今回のコンサートでは客演として二コラ・ユシャールというダンサーを迎え入れていた。音楽もさることながら、二コラ・ユシャールの踊りがまったくもって素晴しくて、とてもいい夜になった。終演後に会場に漂っていた空気から、多くのお客さんがわたしと同じような感慨を受け取っている様子がひしひしと感じられた。わたしはいそいそと帰って、翌日からのロッテルダム行の準備をはじめる。映画祭のプログラムを印刷して、マーカーを引きながらスケジュールを立てていった。この作業はたまらなく楽しい。

日誌 | 20230117 - 0120

1 月 17 日 火曜日

 パリに拠点を置く諸外国の文化機関連盟の総会に出席する。この日の会場は在仏カナダ大使館。はじめの主宰者挨拶で文化機関としてウクライナへの連帯を表明することの必要性があらためて強調された。とても風通しのよい会合で、わたしはここはある種の世界の良心の顕れなのだというあいまいな印象をもった。イスラエル大使館のスタッフから声を掛けられ、フランスで柔道を広めたユダヤ人の話を聞く。試しにエリア・スレイマンの名前を出してみると、ああエリア・スレイマンね、と微妙な反応が返ってくる。

 11区の Café de la Danse で開催された Mermonte のライブに行く。このグループは九年前のフランス留学時代にたまたまラジオで聞いて以来追いかけているのだが、ようやくライブを見ることができた。観客は30代や40代のこじゃれた男性が多い。前座として出演していた Elliott Armen というソング・ライターが、MC で「WWOOF」という単語を発するのを聞いて、わたしはうろたえるほど驚いた。この数日のわたしにとって一番のホットイシューだったからだ。

Mermonte, Café de la Danse

 ライブに同行した同僚と一緒にバスティーユのあたりを彷徨って、なんとなくコンテンポラリーな雰囲気の中華料理屋に入った。わたしたちの隣に座っていた男の子が日本語で話しかけてくる。大友克洋を知ってますか。ぼくはありとあらゆる作品のうちで、大友克洋の『MEMORIES』がいちばん好きなんです。そのあと最近のフランス人は「Bon apétit(ボナペティ)」とは言わない、あえて食欲(apétit)が必要なほどマズそうな料理が供されていると解釈されるのでむしろ失礼に当たる可能性があると教えられた。「Bonne dégustation(よい消化を)」を使うほうが望ましいというが、「ボナペティ」が失礼に当たるというのははたして本当だろうか。普通によく聞くんだけどなあ。

 

1 月 18 日 水曜日

 快晴。イラン料理屋に足を運んで、店主に新年の挨拶をする。赤いインゲン豆や牛肉や玉ねぎを煮込んだソースとサフランライスをいただく。サフランのお茶をサービスしてもらい、またもや店主としばし話し込んだ。最近のイラン国内の政情不安について尋ねる。イランの命運が決まるまで、あと3か月から半年はただただ静かに待つことだ。それまではいかなるイランの政治的意見に賛成も反対も表明してはならない。きみも政治家のように狡猾でいなければならないんだ。わたしたちはいつになったら一抹の不安もなく自由にイランを旅することができるのだろう。

 それでも美味しいランチを取って上機嫌で職場へと戻る帰りの道すがら、破られた本のページが路面に落ちているのを発見する。覗き込んでみると「SOUFFRANCE ET MORT(苦悩と死)」というタイトルが目に飛び込み、わたしは一気に震えあがった。なんと不吉な徴。職場に戻ってから調べてみるとジャック・イゾルニという人物が1951年に著した『ペタン元帥の苦悩と死』という書物の一部だとわかる。ジャック・イゾルニは第二次世界大戦後のエピュラシオンの折に、ペタン元帥の弁護士を務めた人物だという。多数の著作があるようだが、日本では『ペタンはフランスを救ったのである』という訳本が一冊出ているだけだった。このあいだシネマテークで観たばかりのセンベーヌ・ウスマンの『Emitai』で、ペタン元帥からドゴール元帥へと政権が移行し、掲げられていた肖像画が挿げ替えられるときのセネガル兵たちの無関心を思いだす。フランスのいちばん偉い人間が変わったところで、いったいおれたちの生活の何が変わるっていうんだ?

 冷蔵庫を開けると酸っぱい臭いが立ち篭めている。鶏肉が腐りはじめていた。消費期限が明後日までだったので油断していたが、一度開封したため傷みはじめていたらしい。オーブンでこんがり焼けばなんとか食べられるだろうかと思ったが、焼いても口にしてみると腐った味がする。それでも自分の胃腸を信じて食べてみようと大丈夫そうな箇所を切り取って食べてみたが、やはりお腹が痛くなってきたような気がして泣く泣く捨てる羽目になった。奈良に移住した知人に向けた手紙を書く。

 

1 月 19 日 木曜日

 フランス全土で年金受給年齢引き上げに反対する大規模ストライキが起き、パリ市内ではほとんどの地下鉄が止まっていた。街中も職場も異様なまでに静かだ。数万人にも及ぶというデモの隊列がパリの街中を進行しているさまをニュースは報じている。まさにそのデモに参加している友人から、きみはデモには来ないのか、デモに参加せずしてフランス文化をわかったとは言わせないよというメッセージが飛んできた。

 パリに住んでいるマガリと連絡を取る。彼女とは2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で会った。ヤマガタには彼女が共同監督したジャン・ルーシュについてのドキュメンタリーが選ばれていたのだが、そのあと偶然が重なって、当時代田橋のわが家にも一か月ほど居候していたのだった。マガリからはここにいるから来てと、わたしの職場から正反対にある 20 区の Belleville の住所が送られてきた。ストライキで公共交通機関は麻痺している。わたしはこんなときにどうしてわざわざこんな遠いところに呼び出されるのかと辟易しながら、徒歩と地下鉄とレンタル自転車を駆使して、一時間半ほどかけて目的地に向かった。メニルモンタンの駅から東に登っていく丘の上のほうにある Librairie Lieu-Dit という名前の店だった。

Lieu-Dit の壁に掲げられていた風刺漫画

 三年ぶりの再会するマガリとは軽く一杯を飲んで、近況などをしっぽりと報告するだけのつもりだった。ところが彼女は 20 人くらいに取り囲まれて、こっちこっちとわたしを手招きしている。これはパリを拠点に活動する極左社会運動家たちの集まりだよ、とあっけらかんとした口調で語った。日本からのスペシャルゲストが来ましたと、いきなりほかの参加者たちの前で自己紹介をする羽目になり、わたしはたじたじだった。

 マガリは2020年から、コロナ禍で公的支援の手が行き届かない困窮世帯のシングル・マザーを支援する NGO を立ち上げ、郊外のサン・ドゥニ市に、彼女たちのためにシェルターを開いていた。しかし最近になって市役所から不法占拠だと訴えられてしまったらしい。市からは 2 件の訴状が届き、逆にNGOは 3 件訴え返して、合計で 5 件の訴訟が進行中だという。一緒にその話を聞いていた男性は、ぼくはいま 3 件の訴訟を抱えているから、あと3 件誰かに訴えてもらわなきゃなと冗談を飛ばしていた。いったいなんという世界なのだ。この集まりに出席していた人たちはみなエリート中のエリートばかりで、社会運動のコレクティヴを組織する団体や移民の犯罪者の社会復帰支援を行う団体の代表たちが熱心に議論していた。わたしも何人かに日本の政治状況についての説明をしたり、彼らの話をいろいろと聞いた。まだ大学生だという若い活動家の女の子は、リベラルな左翼家庭に育ったが、かつて曾祖父が植民地官僚の要職に就いていたらしく、そのことが一家の恥辱として奇妙なねじれを生んでいると語った。わたしのような代々パリに暮らすブルジョワジー――わたしもブルジョワーズだと認めざるを得ないんだけど――は、結構おなじような歴史をもっている家庭は多いと思う。これはフランスという国家が抱えている近代史上の問題と一緒だね。

 マガリに映画はもうやってないのかと聞くと、もういまは全然! と朗らかな口調で答えた。でもね、このあいだパリに富田克也が来たとき、彼がドニ・ラヴァンに会いたいといったから、わたしは知り合い中にあたってドニの電話番号を入手して、いきなり電話を掛けてみたの。「わたしの友だちの日本人の映画監督があなたに会いたいと言っているんだけど、一緒に飲みませんか?」。それでドニとカツヤと三人で飲むことになって、カツヤは英語もフランス語もできなかったけど、ほんとにありえないくらい仲良くなって、最高の夜だったんだ。また今度ドニと遊ぶときは呼んであげるね。なんだかとても奇妙な夜だったなと思い返しながら、レンタル自転車を小一時間漕いで家に帰った。Belleville は活気があって、わたしの住む静かで清廉な 7 区とは大違いだ。冬の真夜中に汗をかきながらセーヌ川に沿って東から西へとパリ市を横断した。

 

1 月 20 日 金曜日

 朝から外部の撮影クルーと一緒に仕事。彼らはフランスを拠点にフリーランスとして日本のテレビ番組制作を請け負っていて、一年の半分は家に帰らずにヨーロッパのあちこちを飛び回り続けているのだという。ディレクターは取材する町にひとりで一か月くらい前乗りして、現地で実際に生活を送りながら番組のネタを集めながら構成をつくっていくのだといっていた。まさに理想的な暮らしではないか。そのディレクターから「サルミアッキ」と呼ばれるフィンランドの真っ黒なグミをもらった。はじめはまずいかもしれないけど、だんだん癖になってきますよ。ぼくはフィンランドに行くたびに買っていつもポケットに忍ばせてるんです。禁煙にもちょっと役立つし。わたしは恐る恐る嚙んでみると、まるでタイヤを食べているような奇妙な味がした。薬草酒のような味がするというと、その味は原料のリコリスから来ているのだという。

 アフリカ映画のシネクラブに足を運ぶ。センベーヌの特集上映のときに知り合った若いセネガル人のグループが主宰していたシネクラブだった。会場は 6 区オデオンのChristine Cinéma Club という映画館。左岸のシネクラブなんて、まるでヌーヴェル・ヴァーグの黎明期ではないかとうきうきしながら向かった。

 この日に上映されていたのは1977年にコートジボワールで撮られたデジレ・エカレ監督の『Visages de femmes(女たちの顔)』だった。わたし自身どこかで観れる機会はないかと願い続けてきた作品。本作はいろいろな経緯があって日の目を浴びたのは撮影から8年後の1985年である。そのあまりの長さに会場で失笑が起きていた河で戯れる若い男女のセックスシーンでは、女の子のほうが男の子をリードしている。いまよりもずっと父権性が強かったはずの半世紀前のアフリカにあって、これは驚くべき大胆な表現である。1970年代におけるコートジボワールの文化シーンはまったくもって自由な雰囲気を湛えていたことがディスカッションでも言及されていた。

映画館にあった『Visages de femmes』ポスター

 会場の外に出ると、マティ・ディオップがいた。わたしは彼女からジブリル・ジオップ・マンベティ『ハイエナ』に出演している日本人は彼女の親戚で、いまでは二人の子どもがいると聞く。そのあと主宰者も交えて流れ着いたブラッスリーで、『Visages de femmes』の先駆性について昂奮ぎみに話した。デジレ・エカレ監督は、1985年に発表されたこの作品を最後に2009年に没した。いったい死に至るまでの30年余りの沈黙は何を意味しているのか。そのあいだどのような思いで、何をして過ごしていたのだろうか。わたしたちがそういう話をしていると、それまで少しのあいだ黙っていたマティ・ディオップがわたしは〈作品の孤独〉について考えていると口を開いた。もちろんアーティストが辿った孤独も想像に絶するものがある。しかし作品それ自体も、この数十年の孤独に耐えながら誰かに見つけてもらえる日を、本当の意味で作品がもつメッセージが届く相手と出合う日をずっと待ち続けていたのではないか、そしてその日は今日だったかもしれないんだ、と静かに語った。こういう想像力の働きは、まさにわたしが『アトランティック』で感動を憶えたところだと思った。

 向かいに座っていた快活な建築家の女の子と喋る。彼女は日本の木造建築に関心を寄せていて、YouTubeで片っ端から日本の建築物を勉強しているといった。突然に彼女が、この人知ってる? わたしの叔父さんなんだけど日本のテレビに出ているらしくて、とスマホで写真を見せてきた。ゾマホンだった。わたしは驚きのあまり笑ってしまった。しかしわたしの向かいの席に座る二人は、片方はジブリル・マンベティ・ディオップの姪っ子で、もう片方はゾマホンの姪っ子なのだ。この状況を一緒に面白がれる日本人がここにいなかったのが残念だ。しかしこの状況はいったい何を示しているのか? 世界は狭いというひと言で片づけるべきか、いくらか自分も大きくなったと言えるのか?

日誌 | 20230114 - 0116

1 月 14 日 土曜日

 浴槽に浸かってから眠りにつくと目醒めの良さがまったく違う。地下鉄に乗って Itzy のプロデューサーのソロプロジェクトである 250『PRONG』(’22)を聴く。ポンチャックという韓国歌謡を現代ふうに再解釈したダンス・ミュージックで、一曲目からたちまち魅了される。これは新しい音楽だ。このアルバムを勧めてくれた友人は、キッチュなダサさの手前でギリギリ踏みとどまっているスリルがあると表現していた。

 今日も一日センベーヌの特集でシネマテークに缶詰。『母たちの村(Moolaadé)』『Niaye』『Borom Sarret』フランス語公開版の三本を続けて観る。何年か前につくったアフリカ映画カタログに寄稿をお願いしたカトリーヌ・リュエルという批評家が会場にいると気づき、終映後に挨拶にいった。たまたま持っていたカタログを手渡すと、彼女はたいそう喜んで、そのまま打ち上げに混ぜてもらうことになった。

 打ち上げでは上映時にも登壇していたフェリッド・ブーゲディールというチュニジアの映画監督を中心に、さまざまな議論が交わされる。センベーヌの姓名表記順についての問題。『Borrom Sarret』ウォロフ語とフランス語の2バージョンの存在をめぐる経緯。いちばん印象に深かったのは、フェリッドがチュニジアユダヤ人学校に通っていたときのエピソードだった。彼のフランス語の先生は本国から赴任していた厳格なクリスチャンだった。あるとき授業でボードレールの詩をひとりずつ朗読することになり、フェリッド少年はふざけてチュニジアユダヤ人訛りのフランス語で暗誦したところ、教室では大爆笑の渦が巻き起こったが、先生からは烈火のごとく叱られたという。いまも自分はちゃんとあの詩を憶えているだろうかといって、わたしたちに「チュニジアユダヤ人訛り」のフランス語でボードレールの詩の朗誦を披露してくれた。"Sois sage, ô ma douleur..." とはじまる詩句。わたしは何の詩なのかさえわからなかったが、周囲の人たちは「完璧だ、ひとつも間違いはなかったよ」と楽しげな様子。みな一言一句憶えているということか――わたしはこれがパリのインテリゲンチャかと圧倒されてしまった。家に帰ってから調べると、あの場で朗読されていたのは”Recueillement”という詩だとわかった。日本語では「沈思」という訳題で知られているようだ。

 

1 月 15 日 日曜日

 プチ・パレに行く。まずはパリ市営美術館の企画展が一年間見放題になる会員カードを手に入れた。49ユーロ。ルーヴル、オルセー、ポンピドゥーなどはパリ市の直営ではないので対象外だけれど、こういう制度は本当にありがたい。チケットカウンターで対応してくれた若い女の子はデスクに日本のロンリー・プラネットを置いていて、日本に旅行にいくのかと尋ねてみると、来月はじめていくんだと満面の笑みを見せた。プチ・パレの常設展では、ピサロの絵かと思って近づいてキャプションを見るとシスレーと書かれていた。ほんの数日前にえらそうなことをいったけれど、わたしもまだぜんぜん見分けがついていなかった。

Alfred Sisley, L’église de Moret (le soir) , 1894 / 初見はピサロにしか見えなかった

 ウォルター・シッカートの企画展に足を運ぶ。19世紀後半から20世紀前半にかけて英国のビクトリア朝時代の画家で、展示ではキャリア初期から後期までの作品を時系列で並べていた。同じことの繰り返しに飽きてしまうタイプの画家だったのだろう。世界大戦を経て、より政治性を帯びはじめた終盤の仕事は20世紀美術における画家の立ち位置を少し曇らせているように感じた。わたしはホイッスラーやドガに師事し、フランスの印象派に出会って、色彩を鮮やかにしていく初期の作品群が気に入った。展示室には、自分で椅子をもってきて、ひとつひとつの作品に付されたキャプションのテキストをノートに書き写しているお婆さんがいた。彼女はあのノートを家で読み返したりするのだろうか。

 画家の代表作として知られる《Ennui》について、ヴァージニア・ウルフが書いた言葉が紹介されていた。「この状況が恐ろしいのは〈危機〉がないということだ。汚れたグラスや葉巻の吸殻とともに古いマッチが積み重ねられていく、そんなふうに陰鬱な時間が過ぎ去っていくばかりなのである」。キャンバスに切り取られた瞬間だけでなく、その前後の代り映えのしないうつうつとした時間の流れを想像させる作品。

Walter Richard Sickert, Ennui, 1914.

 シネマテーク・フランセーズのセンベーヌ・ウスマン特集は、この日の『Camp de Thiraoye』('88)で閉幕。すべて一回ずつしか上映が組まれなかったが、スケジュールの合間を縫いながら、無事に完走することができた。あえて遺作の『母たちの村』でなく、ティアロエ虐殺を描いた作品をもってこの特集が閉じられることにプログラマーの思いを感じる。照明のついた満員の客席はずっしりと重苦しい雰囲気が流れていた。第二次世界大戦フランス軍に招集されたセネガル兵たちは、任地からの帰還の旅路で滞在していたセネガルのティアロエで、フランス軍に対して正当な賃金支払いの訴えを起こす。だがフランス軍はその訴えを拒み、あろうことか機関銃でセネガル兵たちを一斉に射殺し、そのまま死体を埋めて隠ぺいを試みてきた。センベーヌは1988 年の『Camp de Thiraoye』でこの一部始終を再演したのだった。大戦に参加したセネガル兵士たちのことは "Tirailleur(狙撃兵)"と呼ばれ、この呼称をタイトルにしたオマール・シー主演の戦争映画がいまフランスでも公開されている。

Sembène Ousmane, Camp de Thiraoye, 1988.

 シネマテークの前で沈鬱な面持ちで喫煙していると、ドキュメンタリー作家を名乗る若者から話しかけられて、連絡先を交換。きみはコレエダは知っているか。ぼくは『誰も知らない』が大好きなのだが、彼がフィクションを撮る前にドキュメンタリーを撮っていたと知って、どうにかして観る方法はないかと探しているんだ。自転車に乗って別れたあと、わたしと一緒に映画を観にきた F さんは、あんなふうに新しい知り合いができるなんて、ぼくも煙草を吸うべきかもしれないですねと言った。

 F さんと13区のイタリア広場のあたりに移動して、パリジャンたちでにぎわうベトナム料理屋でフォーを食べた。F さんは長きにわたった学生生活を終えて、4月から日本の大学で教鞭を取る。まもなく教員として学生たちの疑問に答えられるようにしていかなければいけないと思い、日々ひとり頭のなかで学生との想定問答を繰り返すようなったという。たとえばどうしてフランスでは紐につながずに散歩に出ている犬が多いんだろう、なんて些細なことまでね。その話を聞いてわたしは教育者というものは、その立場が育てていくものなのだと思った。

 

1 月 16 日 月曜日

 昨年の夏から参加していた某連続講義の最終発表会に参加する。わたしひとりだけ外国から Zoom 参加となって恥ずかしかった。

 先月パリやニューヨークで撮影していたフッテージを編集して、映像日誌を投稿した。編集しているあいだ、新居のオーブンで焼いた鶏肉を頬張ると、MacBookに油が飛び散り大惨事になってしまった。鶏肉はおいしかった。

 

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日誌 | 20230105 - 0113

1 月 5 日 木曜日

 朝方にシャルル・ド・ゴール空港に着いて、 B 番線でパリ市内へと向かう。ちょうど通勤ラッシュの時間帯で、仕事に向かう人たちが続々と乗り込んできた。腹ごしらえをしてからマルセル・プルースト小径のベンチに深く腰掛けて、久し振りにマック・ミラー『Circles』を聴く。わたしはいまいちど観光客になったような気分に陥る。あまりに鮮烈なニューヨークの記憶に満たされていたためか、それとも年末年始を一緒に過ごした愉快な友人たちから離れてひとりになったためか、パリがどうしようもなく退屈な街に思えてくる。ここはニューヨークに比べてどこかのっぺりしていて、生活の迫力がない。つまるところわたしは寂しかったのだ。マック・ミラーは"Good news, good news, good news / That's all they wanna hear / No, they don't like it when I'm down" と歌っていた。

 7区の新しいアパルトマンに入居する。入居に立ち会ってくれた香港出身の大家の女性はやさしくて、生活に必要なありとあらゆるものをすでに用意してくれていた。彼女はかつてニューヨークで日本企業に勤めていて、そのとき日本語を習得したと流暢な日本語で話す。わたしがニューヨークから帰ってきたばかりだというと、若いときにあの街で暮らすのはすごくいいけれど、根っこが舗道を壊さないように街路樹は金属で押さえつけられていて、街中に土を踏める場所がほとんどなく、10年も住んだら息苦しくて参ってしまったといった。わたしの入居した建物は1880年エッフェル塔建設の労働者のために建てられたものだという。地上階はすべてリノベーションが施されているが、案内してくれた地下室に当時の面影がそのまま残っていた。わたしはこれからこの築140年の建物に暮らすことになる。

 シネマテーク・フランセーズのセンベーヌ・ウスマンの生誕100周年を記念するレトロスペクティヴへ向かう。初日は『BOROM SARRET』と『LA NOIRE DE…』の初期作品の二本立て。上映前にウスマンの息子が登壇して、父の仕事のなかでも『BOROM SARRET』は最高傑作だと思うと話した。父ははじめから自分の進むべき方向をわかっていたのです、と。家に帰ってから、YouTubeにアップロードされている「終わりの季節」を片端から聴いた。それで救われる気持。

 

1 月 6 日 金曜日

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 家の向かいの建物の屋上には、いろいろな大きさの換気杭がにょきにょきと生えて並んでいる。モランディの絵画を連想する。わたしは窓際に白いキャンバスを置いて油彩画に挑戦してみるのも悪くないなと考えた。絵画教室に通ったらいくらぐらいかかるのだろう。

 夜にパリに立ち寄った H さんと食事。有名店から若いシェフが独立して開いたばかりだという6区の「PRÈS DE SEINE(セーヌのそば)」という小さな店に行く。H さんは美術に造詣が深く、半年おきに日本からパリに立ち寄って美術展を廻っている。彼女はこのところSwitchの『ゼルダの伝説』に熱を上げているらしく、先日はじめて訪れたルクセンブルグの城塞都市を前に、思わず「まるでゼルダのようだ」と感動してしまったと語った。同作のパッケージがフリードリヒの《雲海の上の旅人》をそのまま引用していることは何度も指摘されているが、RPGゲームの想像力の源泉にロマン主義絵画が果たした役割は大きい。H さんは『ゼルダの伝説』のプレイを通じて、ロマン主義絵画の世界観への理解が深まったといった。二十一世紀のわたしたちがオリジナルに接近するためには、シミュラークルを通過するほかないのだろうか。彼女は美術を見はじめて20年近くになるが、いまだにピサロシスレーの見分けがつかないことがあるといった。確かによく似ているが、わたしはシスレーのほうが基調となっているトーンがやや暗く、より静かな絵画を描いているのではないかと答えた。実際のところはわからない。何年か前に彼女と会ったとき、ルノワールの絵画の人物には死疸が出ているという当時の評を聞いたのだが、わたしのルノワール観はこの話に大きく影響を受けている。

 

1 月 7 日 土曜日

 向かいの花屋の店頭に並んでいた黄色いミモザを買った。ミモザは春の花だと思っていたのだが、どうやらフランスでは冬の花で、ちょうど出荷されはじめたところらしい。往来でもわたしが買ったのと同じ黄色い花束を抱えた人たちと頻繁にすれちがった。

 午後にシネマテークに出かけ、ようやくシネマテークの会員カードを手に入れる。月々10ユーロで見放題で、UGCのカードとあわせて、パリで映画を観る体勢がようやく整ったわけである。この日もセンベーヌ・ウスマンの『Ceddo』『Mandabi』『Emitaï』の3本を続けて観た。四方田犬彦が書いていたように、センベーヌはアフリカにあってわたしに無関係な問題はないと言わんばかりである。セネガル大島渚

 

1 月 8 日 日曜日

 シネマテークの大ホールではフリッツ・ラングの特集も開催されていて、当然センベーヌよりも多くの人が詰めかけていた。入口でラングを見にいくという知り合いに遭遇して、わたしはこれからセンベーヌだというと、へえ、と微妙な顔をされる。『ハラ Xala』を観る。はじめて観たこの作品にいたく感動を憶えた。センベーヌのフィルモグラフィでいちばんの傑作ではないか。

 とある原稿の執筆を進めながらパスタを茹でた。あまり眠れなくて、だれもいないクレ通りを見下ろしながら煙草を吸って、布団を被り、枕元に置いた iPhone からいちばん小さな音でレイ・ハラカミの[lust]を流した。

 

1 月 10 日 火曜日

 職場の警備員と話す。彼はしきりにわたしの健康に気を遣ってくれていた。もしきみが金持ちでも、権力者でも、健康でなければ何にもならない。なによりも健康がいちばんだ。わたしは本当にそうだとうなずくばかりだった。

 

1 月 11 日 水曜日

 パリはひとたび日が差せば、たちまち美しい街に変貌する。昼休みは近くの水曜マルシェに足を運んで、魚屋の捨てたごみに大量に群がるカモメを見ていた。とある資料に bestiaire と綴るべきところを vestiaire と誤って書いていて、その間違いに気づいた同僚が笑いながら指摘してくれた。前者は動物で、後者はクロークの意味。日本語ではまったく異なる二つの言葉だが、フランス語では隣あわせの単語だ(フランス語の b と v の聞き分けはむずかしい)。言語ごとに単語が織りなす地図世界はまったく異なる。多和田葉子の問題圏。

 今日も今日とてシネマテークのセンベーヌ特集。仕事を少し早く抜けて、『Faat Kine』『Guelwaar』の二作品を続けて観る。家に帰って食事をとってから、ここ数日間ずっとかかずらっていた原稿をようやく書き上げた。

 

1 月 12 日 木曜日

 学生時代にポーランド語を専攻してクラクフに留学していたという同僚と、にぎわっていたイタリア料理屋で食事。クラクフという文化都市のことはずっと気になり続けている。ポーランドはここ数十年にわたって労働人口の国外流出が深刻になっていて、何年か前に滞在したロンドンではたくさんの若いポーランド人と会った。だれもがあの国で仕事を見つけるのはむずかしいと渋い顔をして話していた。そういえばパリではあまりポーランド系を見かけないなと思う。

 シネマテークフリッツ・ラング『月世界の女』(’29)を観る。Nova Materia という電子音楽のデュオの生演奏付きで、いちばん大きいラングロアのホールが満席だった。1969年にニーム・アームストロングがはじめて月の大地に一歩を踏み出したずっと前から、人類は空想の世界で幾度となく月面旅行を果たしていたのだ。この作品が撮られたのも、その40年前のことだ。当時の観客はどんなふうにスクリーンを見つめたのだろう。

Fritz Lang, Frau im Mond, 1929

1 月 13 日 金曜日

 職場の同僚の黒人連中にさそわれて、彼らが最近見つけて気に入ったというカメルーン料理屋の弁当を一緒に注文した。玉ねぎとハーブとスパイスで川魚をまるまる焼いたものとバナナの揚げ物がアルミホイルに包まれて届けられる。ブルキナファソではあまり縁のなかった熱帯の料理だ。味が濃くておいしい。

 夜に Saint-Michel の店にいって、数年ぶりにモロッコ出身のメディと会う。エクス=アン=プロヴァンスの留学時代からの仲だから、もう十年来の友人になる。お互い歳を取ったねと笑って、青春(jeunesse)の終わりについて長く話した。出会ったころにはミケランジェロ・アントニオーニについての論文を書いていたメディは、数年前にムスリムに帰依して煙草も酒も辞め、最近は映画業界から離れて、IT系の企業でSEとして働きはじめたそうだ。おれはいずれ家族が欲しいと思っていて、そのためには安定した収入は欠かせない。いずれ映画に戻れたらと思うけど、いまの自分の状況には不満はまったくない、好きなことをできるだけの金があることは素晴しいことだと、落ち着いた声で話した。数年前にメディと再会を果たしたのもこの店で、あのとき彼はレシートの裏にアラビア語コーランの一節を書いて、そのまま朗読してくれた。わたしはあのときの美しさをよく憶えている。イスラム教徒のメディは、わたしの最近の仏教への接近について真剣な顔つきで耳を傾けていた。

ニューヨーク旅行記 Ⅲ | 20230101 - 0104

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2023年1月1日 日曜日

 新年を迎えたばかりのタイムズ・スクエアは狂騒のうちにあった。音楽が鳴り響き、紙吹雪が舞い散り、ごった返す人々が騒ぎ立てる様子をテレビ越しで眺める。わたしはそこから20マイルほど離れた静かな場所で、きっとだれもがそうであるように、いったい今年はどんな年になるんだろうと考えた。

 朝になって KC 夫妻と同じマンションに暮らす日本人夫婦がやってきて、二人が機械をつかってこねたという餅をご馳走になった。黄粉と砂糖醤油と小豆と海苔に加えて、黒豆や蒲鉾の用意もある。おせち料理と呼ぶにはほど遠いが、ニューヨークでもこうして日本の正月の食卓は少なからず再現できてしまうのだ。昼ごろまでだらだらと食べて、お決まりの昼寝。まさに寝正月。

 日が暮れるころになってのそのそと起きだして、ひとりで近所を散歩したあと、夫婦と一緒に近所のピザ屋に出かけた。いつもよりも客入りは多かったようだが、わたしたちの目につくところで新年を感じさせるものは何もない。顔見知り同士でハッピー・ニューイヤーと言葉をかけあっている姿を何度か見かけたのみだ。わたしは海外で新年を過ごすのは二度目だが、なにもかもが宙づりになったような、日本の静かな正月の雰囲気を愛してやまない者としては、アメリカ合衆国の新年の通常営業ぶりに逆に物足りなさを感じてしまう。

 家に戻って、三人でビールを飲みながら箱根駅伝の生放送を見る。時差の関係で、ちょうどニューヨークの18時から往路のレースがはじまっていたのだった。特に四区の熱戦にテレビの前のわたしたちは大いに盛り上がる。駒場、中央、青学の熾烈な首位争い。「史上最強の留学生」という触れ込みの東京国際大のヴィンセントの8人抜き、そして1時間00分の区間新記録。それにしても夜に酒を飲みながら見る箱根駅伝は格別だ。毎年こうしてアメリカで箱根駅伝を見たいと思ったほどである。ちょうど往路のレースが終わったあたりで、11月に足を運んでいた FRUE という音楽フェスティバルの映像無料再配信に移行する。せめて Bruno Pernadas までは粘りたかったのだが、Deerhoof の途中で眠ってしまった。

史上最強の留学生ことヴィンセントの放送事故感のあった日本語インタビュー

1 月 2 日 月曜日

 ニューヨーク郊外の夫妻の家に別れを告げ、マンハッタンの MoMA に向かう。この日の夜は予定があって、箱根駅伝の復路を一緒に見ることができなかったのが残念で仕方がない。タイムズ・スクエアのあたりを通ると、年越しのときの色とりどりの紙吹雪があちこちで風に舞っていた。MoMA ではちょうど前日までウォルフガング・ティルマンスの回顧展が開催されていたのだが、残念ながら一日間に合わなかった。何年か前に大阪の国立国際美術館でこの写真家の作品はまとめて見ていたが、当然 MoMA のものははるかにその規模を凌駕していただろう。比較できたらおもしろかったにちがいない。

 気を取り直して MoMA の常設展を堪能。モネをして「セザンヌはわれわれのうちでもっともすぐれた芸術家だ」と言わせしめたというセザンヌの《赤いチョッキを着た少年》の一点(わたしはチューリヒにある同作がいちばんの傑作だと思っている)。アンリ・ルソー《夢》やピカソ《アヴィニヨンの女たち》などの画家の代表作の前には思わず立ち止まってしまう。MoMA 所蔵の《洗濯女たち》(1888)はゴーギャンの画業のうちでも最高傑作ではないかと感じ入った。わたしはルーブルを引き合いに出して MET をくさしたばかりだったが、MoMA はさすがの充実ぶりだ。とはいえ欧州美術に限るならばやはりオルセーのほうに軍配があがるが、やはりMoMA は南米アメリカ大陸の作品が多数並んでいるのがおもしろい。アメリカ抽象表現主義の作品にはあまり関心を抱いていなかったが、ここにはマーク・ロスコの作品が何点か展示されていて、その色づかいと画面構成の巧みさに深い感動を憶えた。さらにはほとんどわたしも見たことのなかったラテンアメリカの美術に関する部屋もいくつもあって、欧州とも北米ともアジアとも異なる未知なる美術の世界の入口に立ったことに昂奮した。わたしはラテンアメリカ美術についてほとんど何も知らない。

Paul Gauguin, Washerwomen, Arles, 1888

 「Hell's Kitchen(地獄の台所)」という物騒な名前の地区を通り抜ける。ゲイバーをいくつか見かけ、ここはおそらくマンハッタンのゲイエリアなのではないかと思われた。東京では新宿、パリでは1区と、都心にほど近い場所にLGBTQの人たちが出かける場所があることは多い。都市近代史を勉強すれば容易に理由は紐解けるのだろうが、こうしていまも残っているのは、ひとりひとりが都会の喧騒に身を紛らせることができるからだろうか。

 R と待ち合わせて、友人から薦められたチェルシーの Printed Matters, Inc. という本屋に向かう。なんでも世界中から集められたZINEの総本山のような店だというのだが、着いたころには年始営業のためにすでに閉まっていた。このあとの観劇まで余裕があったので、小腹を空かせたわたしたちは Googleマップで気になった近場の Porteño というアルゼンチン料理屋に向かう。ポルテーニョとは、アルゼンチンではブエノスアイレスを示す単語のようである。わたしは Ravioles de Calabaza というレモンで味付けされた山羊チーズの南瓜餃子を食べた。このシックな雰囲気のレストランはデートで来たらいいのではないかと R に薦めてみると、まんざらでもない様子。

 オフ・ブロードウェイで、建物一棟まるまる使って上演される『SLEEP NO MORE』というショーを観にいく。すでに3回も足を運んでいるという C から薦められ、200ドルの大金を叩いてチケットを購入していたのだった。これは演劇と呼ぶには躊躇いのある変わったショーで、観客たちは建物の入口で渡される白い仮面を被って、この年季のはいった六階建てのホテル一棟を自由に歩き回り、至るところで同時多発的に進行している役者たちの芝居を追いかけていくことになる(『アイズ・ワイド・シャット』の仮面舞踏会を思いだして、それだけでどきどきしてしまう)。この日は年始なこともあっていつも以上に客が入っていたようで、仮面を被っていない俳優たちがひとたび現れると、十人、二十人規模の群衆がどたどたと小走りでひっついて回っていた。物語はシェイクスピアマクベス』をもとにしているというが、科白が一切ない上に、わたしたちは断片的に場面場面を見るほかないので、一度だけでは全体像をつかむことはできない。わたしは必死になって物語を追うのが下品に思えて、ひとりでのんびりとホテルを歩き回りながらこの世界観を楽しんだ。たまたま居合わせて『マクベス』と認識できたのは、暗殺のあとに血だらけになったマクベス伯爵がマクベス夫人のもとへと戻ってきた場面だけだった。いい場面だ。

 終演間際になって、地下の西部劇に出てきそうな内装のダンスホールに人だかりができていた。きれいに着飾った俳優たちがダンスを繰り広げている。わたしは隅のほうに立ってその様子に見とれていると、緑色のドレスに身を包んだ女優がわたしのもとへと走ってきて、目の前で手を差し出すではないか。わたしはおずおずとその手を取り、周りを取り囲んでいた数十人の観客の視線を感じながら、彼女と一緒にたどたどしいダンスを踊る。ふつうは役者から観客は見えない設定で進行していくのだが、このようにしてたまに役者から観客のほうへと働きかけてくることがあるようだ。わたしは永遠かのように思えた数分間、彼女と見つめあいながらステップを合わせる。彼女はわたしの耳元で「Good night」と囁いて、もとの俳優たちのもとへと飛び跳ねるように戻っていった。終演後、わたしは R と合流して、それぞれが目撃したものを報告しあった。わたしはあの緑色のドレスの女優と踊ったのだというと、R は大層うらやんでいた。

マンハッタンに聳え立つビル群

1 月 3 日 火曜日

 ジャクソンハイツで集合。雨が強く降っていた。スーパーで買ったばかりの安物の折り畳み傘の開閉ボタンを押すと、取っ手だけが外れ、すさまじい勢いで道の向こうまで飛んで行く。隣で一部始終を目撃していた見知らぬラティーノと顔を見合わせてげらげら笑う。わたしたちは四人でペルー料理屋に入った。応対してくれた愛嬌たっぷりのペルー人の青年は、Water という英単語すらうまく伝わらず、Agua と言うとにっこりとうなずいた。ニューヨークで働く彼はほとんど英語を解さず、わたしたちは四苦八苦しながらスペイン語で注文をした。焼きそばのようなものを食べる。

 バングラデシュ料理屋でホットチャイを飲んでから、ニューヨーク植物園をめざしてブロンクスに向かう。ニューヨーク経験のある周囲の友人や知人にブロンクスのおすすめをいくつか聞いていたが、みな口を揃えてブロンクスはあまり行ったことがないのでわからないといった。ギャングの抗争が頻発していた70年代や80年代に比べると治安はずっと落ち着いたというが、はたして現在はどのぐらい危険な地域なのだろう。前情報が頭に入っていたせいか、Fordham 駅から植物園までの道のりでも、ほかの地域を歩くときにはなかった緊張を感じる。駅前では妙齢の女性がひとりマイクを使ってスペイン語で何かを叫んでいた。

 ニューヨーク植物園の温室では、毎年冬の季節に30年以上もつづく恒例企画だという「HOLIDAY TRAIN SHOW」が開催されていた。熱帯の植物がうっそうと生い茂る温室に小さな線路が敷かれ、たくさんのミニチュア列車が走っている。その線路沿いには、植物でつくられたというニューヨークのランドマークのレプリカがいくつも並べられている。こんな調子で大きな温室に何部屋も展示が続いていて、わたしたちはこの夢みたいな空間で、まるで子どものようにはしゃいだ。きっとこの展示がきっかけで、人生が変わってしまった子どももいるのではないだろうかと思わせるほどの空間。このトレイン・ショーを除くと、植物園はやはり閑散期で、目ぼしいものが出ていなかった。標本館にいくと閉館時間になっていて、警備員から This is all you can see と言われたものが入口のガラスのショーケースだけ。その切なさがおかしくて、R と顔を見合わせて笑った。

グッゲンハイム美術館のレプリカ

 わたしたちはブルックリンのウィリアムズ・バーグのあたりに行く。仕事終わりの K さんが合流して、Santa Fe BK という洒落た店に入る。サンタ・フェと聞くとたちまち宮沢りえに頭を支配されてしまう。わたしたちは感じのよい快活な店員に相談しながら、クラシカルなハンバーガーを頼む。そのあとわたしはひとりで St. Mazie Bar & Supper Club という店に移動して、毎晩22時から組まれているというジャズバンドの生演奏を聴いていた。おめかしした若い女性たちがずらっと最前列に囲んでいて、きっとこのプレイヤーたちはもてて仕方がないのだろうと思っていたら、演奏が終わった瞬間に女性たちは立ち去って、サックス奏者はさみしそうにひとりで食事をしていた。

 そうこうすると、雪崩のように酔っ払った友だちが合流してくる。わたしのニューヨーク最後の夜は、彼らと日付が変わるまで酒を飲んだ。KC 夫妻とはつぎはパリで再会しようと約束して別れを告げた。R と地下鉄に乗ってルーズベルトアイランドに戻ろうとするのだが、工事か何かで地下鉄が止まっていて、わたしたちは二時間近くかけて家へと戻った。待てど暮らせど来ない電車、わたしの疲労はピークに達して、かなり不機嫌になる。R には申し訳ないことをしてしまった。マンハッタンとロングアイランドルーズベルトアイランドの往来者にわざと不便を強いているのではないかと勘繰ってしまうほどニューヨークの交通網はややこしい。しかしこのややこしさ、別の言い方をすれば、この分断こそがニューヨークの地区ごとのきわめてバリエーション豊かな特色を保っているのではないかという気もした。どこを訪れてもパリでしかないパリとちがって、ある意味ではニューヨークは東京に近しい。

ニューヨークのほとんどのエレベーターで見つけたボタン。消防士の帽子のイラストらしい

1 月 4 日 水曜日

 荷造り。R はわざわざルーズベルト島からクイーンズに架かる橋のところまで見送りに来てくれた。その途中で、木板の荷下ろしをしているラティーノたちにカメラを向けてビデオを撮っていると、撮られていることに気づいた者がひとりまたひとりとポーズを取ってくれる。ニューヨークを離れようとしていたわたしにとって、このうえない餞別を贈ってもらったように感じた。こうしたラティーノたちの陽気さが、この都市の活気をつくっているのではないだろうか。わたしは彼らに大きく手を振って別れた。

 橋をわたってクイーンズのあたりを歩く。到着のころの寒波が信じられないくらいの陽気。川をひとつ挟んでクイーンズに踏み入れただけで一気に建物の背が低くなり、「Dutch Kills (オランダの殺戮)」というこれまた物騒な名前の地区を抜けた。ストリートでオランダ系の痕跡を見つけることはできなかったが、この地区でも英語よりもスペイン語のほうがよく話されているように思われた。ジャクソンハイツまで出て、もう二度も訪れていたバングラデシュ料理屋に訪問し、チキンサモサとチャイを頼む。小銭を使い切ろうとごそごそと財布を漁っていたら、隣の女性が1ドルのコインを恵んでくれた。こんなことは日本はおろかフランスでも一度も経験したことがない。これがアメリカ国民の懐の広さなのだろうか。

バングラデシュ料理店にて

 バスに乗ってラガーディア空港に着く。ニューヨーク滞在中の写真や動画を整理していると、半分以上は美術作品を撮ったものだが、13日間の滞在で1,000個以上のデータが iPhone のカメラロールにあった。パリの3週間をはるかに凌ぐ物量。わたしは飛行機に乗り込んで、大西洋の上空で『夜の果てへの旅』の続きを読み進める。バルダミュはニューヨークに着いて、フォードの工場でこき使われたあと、アメリカの娼婦たちと戯れ、そして再びパリへと帰郷して、新たな生活をはじめていた。わたしもバルダミュと同じように――同じように?――パリに戻ることになる。夜の果てへの旅?

 

ニューヨーク旅行記 | 20221228 - 20230104(全 3 回)

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