本棚(2021年2月)

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 2021年2月の本棚。『高架線』から左は積ん読です。眺望のいい家に越したので、これから暖かくなっていくのが楽しみです。

 

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 球春到来。コロナの影響はありながらも、今年も例年どおり無事にプロ野球はキャンプに突入することができた。阪神タイガースのキャンプや練習試合の様子を追って、連日YouTubeやなんJまとめに齧り付く日々。来たるシーズンに備えてプロ野球選手データ名鑑』も手に入れて気持ちを高めていっている。

 データ名鑑は複数社が似たようなものを出版しているが、いちばん背表紙がすっきりしていた宝島社刊行のものを購入。表紙には大野雄大、岡本和真、柳田悠岐の3選手の写真が載っていた。球界を代表する選手ということで、この3名の選定にまったく異存はないが、近い将来にこの表紙に阪神の選手が載るとしたら、ひょっとしてそれは佐藤輝明なのかもしれないなと考えた。四球団競合で矢野がクジを引き当てた鳴り物入りのドラフト1位ルーキー。引き当てたあの瞬間も、職場でこっそり動画を覗きリアルタイムで見ていたのだが、あのときはさほど期待していなかったものの(とくに「素材型」という触れ込みだったし、なんJ民たちの評価は高くなかった)、連日のキャンプの新人離れしたニュースを聞くにつけ、もはや期待しないでいるほうが難しくなってきた。期待値がカンストを起こしてしまってむしろ困惑しているほどである。いつか球界を背負って立つバッターになりますよう! 今年こそは阪神タイガースの十六年ぶりの優勝が望めるぐらいの戦力が整っているだけに、スケジュール通りにシーズンが進行することを祈るばかりである。プロ野球のない一年は耐えられない。

 

 先月から引き続き小津安二郎をU-NEXTで観ていって、無事に小津の現存する全37作品を踏破。あわせてユリイカ 総特集 小津安二郎 生誕110年/没後50年』も未読だった論考をいくつか読んでみたが、先月の記事で書いたように、四方田の論考を読んだあとでは(まったく自分は影響を受けやすい人間だなあと失笑しながらも)いまいちぴんと来るものがない。小森はるかのような随筆調であればとくに警戒せずにすっと読めるのだが。しかしわたしが小津について書くとしたら、何かもっともらしいことは言えるだろうか。うーん、いまのところ何もなさそうです。

 わたしにとって二月は小津よりももっぱら相米に捧げられたひと月であった。ユーロスペースで没後20年を記念した相米慎二特集が組まれており、それに通う日々がつづいた。副読本として黒沢清と榎戸耕史の対談動画で紹介されていた『甦る相米慎二を購入。没後10年に当たる2011年出版の本書は、20名近くの評者からなる論集である。あまり読み進められていないのだが、巻頭を飾っている濱口竜介の論考などいくつか読んだ。刊行は2011年だから、まだ『親密さ』も発表されていないときだ。若き映画監督に巻頭文を任すという本書編纂者の心意気を感じる。

 じっさい濱口の論考はよかった。「多くの「相米ファン」は『ションベンライダー』『魚影の群れ』『台風クラブ』といった明らかに前期に属する作品群を傑作と見なす傾向が強いように思える。このとき、彼らは「距離」や「越境」を廃棄して見せる後期相米を、言わば「奇跡(の記録)」を欠いた映画と見なし、信じようとしない。」(p.25)と濱口は書いているが、わたしはむしろこの「相米ファン」とは逆で、初期の『翔んだカップル』や『セーラー服と機関銃』はなにがいいのかあまりわからず、むしろ退屈だとすら思っていた。こうした作品群を前にわたしは、相米慎二はひとつのカタルシスのために別の何かを犠牲にしているのではないか、ドラマのために別のドラマを犠牲にしているのではないかという茫洋とした感想を抱いていたが、あの釈然としないわたしの思いは、被写体との距離、距離によって生ずる顔の失認であるという濱口の論考によっていくらか合点が行くことになった。顔を失認とはすなわち、ひとつのナラティブを放棄することである。むろん相米はそれによって代わりにカタルシス(濱口の言葉でいえば奇跡)を記録しようとしていたのだが、わたしはその方法論にうまく馴染めなかったのだ。ともあれ、もう少しいろいろと読んでみる。ほかにも相米関連の文献はいくつかあって、なにを読むべきかと少し困っている。なにかおすすめがあったら教えてください。

 

 毎月のように四方田犬彦の著書が本棚に並んでいるが、今月のあるとき本棚から『アジアの大衆的想像力』を引っ張り出してきたのは、胡金銓(キン・フー)の映画を観たことがきっかけだった。『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』『俠女』『山中傳奇』という、総計八時間ぐらいに及ぶ三本立てを早稲田松竹で敢行して帰宅したわたしは、同書に収録されている「The Last Time I Saw Hong Kong」という香港映画の概論のうちに、胡金銓への多少の言及があったのを見つけた。

胡金銓は五〇、六〇年代香港の、栄光に満ちたプログラム・ピクチャーの時代と、八〇年代以降の新浪潮(ニューウェイヴ)を繋ぐ重要なシネアストであり、今日もっとも精力的に活躍している監督たちが共通して仰ぎみる背景、とでもいうべき存在である。(…)八〇年代の新世代の監督たちと胡金銓との関係は、喩えてみるならばリヴェットやゴダールルノアールのそれに似ている。(p. 174)

 胡金銓についてはおろか、香港映画についてさえもほとんど何も知らなかったわたしでも、この指摘を読んでなるほどと合点がいった。これは批評の功績である。ひとつの構造をべつのなにかに敷衍する、つまり移し替えること、喩えることによって対象に接近すること。それは批評がなしうる最良の仕事のひとつであろう。そこには対象を単一眼的に掘り下げていくだけではたどり着くことのできない世界のひらけがある。

 

 『ミュージック・マガジン 2021年3月号』は、巷で話題になっていた「2010年代の邦楽アルバム・ベスト100」特集が気になって購入。この特集は、わたしがかつてほんの少しばかり音楽をやっていた10代の後半からいまに至るまでの青春時代を総覧しているものでもあったので、その時代を生きた者のひとりとしておもしろく読んだ。しかし、ベストが折坂悠太『平成』とは。わたしもよく聴いていたアルバムなのだが、一位というのはどうなんだろう。平成というわかりやすい看板を掲げているもんね、と意地悪なことを思ったりする。他方でandymoriの『ファンファーレと熱狂』が90位代にあるのを見て、2010年というのはすでに遠く隔たってしまったんだと少し淋しくなったりした。

 『新潮 2021年3月号』は、52人による「2020コロナ禍」日記リレーの特集に惹かれて購入。2020年の一年を一週間ごとに、52人の「つくる人」が順々に日記を書いていっている。同種の企画の書籍はいくつかあるが、この企画の瞠目すべきところは2020年1月1日から日記がはじまっていることである(ちなみに一人目は筒井康隆)。コロナ以前からたまたま企画していたことが、奇しくもコロナ禍に遭遇し歴史的なドキュメントになってしまったということだろうか。もともと2020年は(記念すべき)オリンピック・イヤーになったはずだったから、こういう企画があっても不思議ではないのだが、いまごろ担当編集者はにんまりしていることだろう。

 少しずつ読み進めていたのだが、四月のあたりでいったん中座している。執筆者のほとんどが文章を書くことを生業にしているひとで、おのおのが日々のなかで四六時中書くことと格闘している様子が垣間見えて印象深かった。そしてこの日記には、だれかにとりたてて伝えるまでもないような――ましてやソーシャルメディアで発信されることなんてないような日常の機微が綴られていた。そこにはただ生活があった。生活だけが無骨に横たわっていた。往々にして生活は退屈なものであって、ひいては他人の生活の機微を見知ったところで、退屈以外なにものでもなさそうにもかかわらず、どうしてそれはおもしろいのだろう、とあえて書いてみる。わたしはこの「にもかかわらず」という視点を大事にしていたいと思う。

 

 磯野真穂、 宮野真生子『急に具合が悪くなる』は、ある友人が「この本について誰かと語り合えないまま死にたくない」と激賞していたので、その薦めにしたがって読んでみた。九鬼周造を専門にする哲学者である宮野真生子は、あるとき癌で余命宣告を受ける。彼女の病について、友人である文化人類学者の磯野真穂と包み隠さず語り合った10通の往復書簡が収録されている。急に具合が悪くなるということはいったいどのような事態を指し示しているのか。余命がいくばくもないと知った人間は、あるいはその周囲の人間は、どのような感情と遭遇するのか。だれの身にも起こりうる死の訪れという可能性について、ときに先人たちの知見を借りながら、等身大の実感にもとづいて丁寧につづられていく。これはまったくもって感動的な書物だった。もし自分が余命宣告されたらきっとこの書物を読み返して勇気を得ることができるだろうし、あるいは自分の近しいひとが余命宣告されたらばぜひ贈りたい名著である。ちなみに薦めてくれたその友人とは本書についてゆっくり語り合う機会をまだもてていない。

 

 乗代雄介『旅する練習』は、現代日本文学読書会の課題本として選書した。宇佐見りんと芥川賞を争った著作である。先月読んだばかりの『推し、燃ゆ』もたいへん素晴らしかったが、わたしは『旅する練習』のほうを推したい。ほんとうに高いレベルの争いで、まじで現代日本文学ってすげーじゃん、とわたしは昂奮しきりであった。

 小説で描かれるのは、2020年3月、わたしたちがまだコロナウイルスの全容を掴めず、漠然とした不安に苛まれていた頃のこと。文筆を生業にしている三〇代の主人公と、その姪っ子の小学生である亜美のふたりが、一週間かけて利根川を歩いて下っていき、鹿島アントラーズの本拠地をめざしていく。ときおり立ち止まっては主人公は風景をノートに書き留めているあいだ、サッカーをしている亜美はリフティングの練習をする。

 あのときの風景をどのように残すことができるのか。その瞼の裏側に焼き付けるのではなく、ただ記憶として持つのではなく、主人公はあえて気の遠くなるような時間をかけて、それを文学という形で残そうとする。文学の欺瞞性に気づきながらも、それに賭けていくということ。ここには物語そのものが立ち上がる動機と文学の方法の一致が見られる。瞬間瞬間の快楽に埋没することにあらがった反=LSD小説。ほんとうに素晴らしい傑作だった。

 

 『春の庭』は、柴崎友香と、『春の庭』の各国語の翻訳者を招いたオンラインのトークイベントを見たのがきっかけで購入した。柴崎友香を読むのは『寝ても覚めても』('10)以来の二作め。奇しくもこれも芥川賞の受賞作であるが、来歴を調べると、1999年のデビューから15年目にしての受賞だったようだ。わたしがイメージをしていた以上にキャリアが長いし、安定して新作を放っていて驚いた。

 『寝ても覚めても』はどうしても映画と比べて読んでしまっていまいちだったのだが、本書については好感を持った。奇を衒わずにさらりと書きながらも、その息の長さも納得の筆力に支えられた作品。アパートに暮らす「太郎」を主人公に据えた三人称小説なのであるが、小説の最後の最後に、はじめて「太郎」の姉である「わたし」が現れ、突如として一人称小説に切り替わる。この「わたし」は、全体の説話にとってはほとんど意味をもたない登場人物でしかないのだが、「太郎」と「わたし」の視点が入り混じった最後の一連の描写がかなり不気味で素晴らしい。同じ時間に、別々の空間にいる二人の動作が一文のうちに凝縮される。それは神の視点のようなものであるが、たとえば映画において二人の人物のそれぞれのシーンのショットが切り替わるということとは、まったく違う効果を生み出している。あの戦慄は、小説を最後まで読み進めないと味わうことのできない不可思議な感覚だった。


 ベルナルド・カルヴァーリョ『九夜』は、海外文学読書会の課題本として選書した作品。説話の構造がひじょうに複雑なのもあるのだが、訳文が読みづらく、ほとんど物語が頭に入ってこないまま、活字を目で追うだけで終わってしまった。読書会では訳文のひどさについてしかあまり語られなかった。ブラジルの密林の奥で暮らすインディオの生活に分け入って、自死を選んだという若き文化人類学者の足跡を辿る旅というあらすじに惹かれただけに、ひじょうに残念なことである。

 

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 以下、積ん読本。

 

 緊急事態宣言下で、悶々とした日々を過ごしていたわたしは、何年か前に友人が体験談を語っていたアイソレーションタンクのことを思い出し、仕事終わりに行ってみた。あやしいマンションの一室で、一万円近く払って、真っ暗闇のなか、素裸で塩分濃度の高い水のうえに一時間ほどぷかぷかと浮かぶという一種の瞑想体験である。ぼくもいってみたよ、とその友人に伝えたら、そんなきみにはこれを読むのがいいだろうとインテグラル理論』を薦められたが、まだ積まれたまま一頁もひらけていない。

 滝口悠生『高架線』は、小説を書いている友人に現代日本文学読書会をはじめたという話をしたときに、それならばこれを読んでほしいと薦めてもらった本。さっそく来月の課題本とした。リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』は、本屋を回っていたときに目に入って、そういえばわたしはこれまで一冊もブローティガンを読んだことがなかったなと購入。

 

 二月はそんな感じでした。新居に越したばかりで、まだ読書のための適切な空間をこしらえることができていない。

 

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