本棚(2021年4月)

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 2021年4月の本棚。今月はあまり読めなかった。積ん読はなし。

 

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 早稲田松竹ダミアン・マニヴェルの『イサドラの子供たち』の上映に駆けつけて、とめどなく溢れ出す涙でマスクを完全にだめにしてしまった。二年前のヤマガタではじめてこの作品を観たとき以上の感動があった。あの映画が描いていた人物の所作のひとつひとつを思い浮かべながら、第一部のあの女性と同じように『魂の燃ゆるままにーイザドラ・ダンカン自伝』を読み進めていく。一世紀も異なる時代を生きたイザドラ・ダンカンの、溌剌とした生きざまが端々に感じられる。しかし彼女の文章は、あの映画から受けた感触とはまったく異なる手触りであったことに驚ろいた。映画は、彼女自身の自意識の強さに向けて、同じような強度の自意識をぶつけることをせず、ただそれをしずかに受け止めていた。そのことがまたより一層感動的だったな、などと考える。

 

 このようないくらか感傷的な日々が続いたのもつかの間で、わたしにとっての四月は大いに政治的にアジテートされた月だった。大島渚を集中的に観たからである。シネマヴェーラの特集に足繁く通い、4Kリストア上映にも駆けつけ、夜半にU-NEXTをひらいては、『マックス、モン・アムール』以外の、大島渚のすべてのフィルモグラフィを目撃してしまった。わたしにとっては大島渚の作品は「目撃してしまった」という表現がぴたりと来る。その副読本として、四方田犬彦大島渚と日本』を読んだ。またしても四方田犬彦である。わたしの行く先々にいつもヨモタがいる。あるいはヨモタがわたしの行き先を暗に示しているのか。

 大島渚と日本。ひとたびこう書きつけたもののわたしは、この「と」という接続詞をはたして英語のandに素直に置き換えることができるだろうかと自問している。ひょっとしてこの「と」は、対決を意味するversusと翻訳すべきものではないだろうか。

 

 大島渚の探究ついでにといってはなんだが、長きにわたって積ん読していた四方田犬彦『日本映画史110年』集英社新書, 2014)も読んだ。「わたしは日本人と日本映画とが幸福な関係を結んでいた時代を再検討することによって、映画とは何であるかという問いに答えておきたかったのである。」という巻頭言ではじまる本書の瞠目すべき箇所は、なんといっても第5章の「植民地・占領地における映画製作」であろう。大日本帝国第二次世界大戦までに獲得した外地である台湾、朝鮮、満州、上海、インドネシアでの映画について語られる。これらを「日本映画史」の著述に含めるというのは、四方田犬彦ならではの仕事だろう。

 

 磯部涼『令和元年のテロリズム(新潮社, 2021)は「新潮」連載時から気になっていて、たまに書店でぱらぱらとめくっていた。本書は「人々が美しく心を 寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味が込められていると安倍首相が語った令和元年に起こった、川崎20人殺傷事件、元農林水産省事務次官長男殺害事件、京アニ放火殺傷事件という三つのいたましい事件を丁寧に追っていく。著者は報道を目にした大方の世論がそうであったように、安易に加害者を断罪することはない。その風潮に同調することは、近年の日本社会にしばしば散見される「他罰性」「自己責任論」への盲目的な雷同にほかならないと考え、その限界にたびたび突き当たりながらも、加害者が事件に至った背景をひもとき、事件の原因を個人や家族に還元させることなく、その繭を突き破って社会の側へと送り返そうとする。

 あえて無遠慮ないいかたをすれば、永山則夫や加藤智大と異なって、近年の凶悪犯罪者には「テロリズム」たりうる強靭な思想性が欠落している。それは思想そのものの弱体化でもあるだろうし、ひとびとの表現力の衰退でもあるだろう(大島渚のような作家が現れないのは、そのためでもあるだろう)。それでもなお著者が件の三つの事件を「テロリズム」と呼ぶことを憚らないのは、前述したように、これを個人の問題に帰すことなく、社会全体が中長期的に重く真摯に受け止めるべきだという主張をしているためだ。わたしはこの主張にはたいへん感化された。

 こうした事件の社会的背景として、著者は平成が抜本的解決を先延ばしにしてきた「80/50(70/40)問題」、すなわち引きこもりの問題が、この三つの事件でそれぞれの形で表出してしまったという立場を取っていた。この四半世紀の政治が少しでもちがっていれば、これらの事件の被害者はいまもどこかで平穏無事に暮らしていたかもしれないし、加害者もまたまっとうな人生を歩んでいたかもしれない。こうした「たられば」は、事件の凶悪さを前に一見無力であるように思えるが、短絡的な因果関係だけでなく、このような射程をもって事件を捉え直す視点はひじょうに重要である。ひとは二十世紀よりも近視眼的になっているのだろうか。それはわたしたちが歴史の終わりのあとを生きているからなのだろうか――などと貧弱な思索に耽ってみるも、これもまた「近視眼的」で「短絡的」な時代寸評にすぎないのではないかと立ち止まってみる。あるいはわたしの表現力の薄弱も時代のせいにしてしまえるだろうか。

 

 クラリッセ・リスペクトル『星の時』(福嶋伸洋訳, 河出書房新社, 2021)は、1920年ウクライナユダヤ人の両親のもとに生を享け、迫害を逃れてブラジルへと行き着いた作家。本作は1977年、作者が56歳で夭折する直前にポルトガル語で書かれた中編小説である。ニューヨークタイムズの「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」という文句に惹かれたが、実際読んでみたらまったくもってぴんとこない小説だった。これは読書会で取り上げたので、二時間近く語ったはずなのだが、いまやもうほとんど内容を憶えていない。

 

 いっぽうで、日本文学読書会の4冊目の課題本として取り上げた藤原無雨『水と礫』河出書房新社, 2021)は、とてもおもしろく読んだ。一冊のなかで1、2、3 という章立てが何度か繰り返され、同じ筋書きが語り直されてはそのたびに新たな拡がりを見せていく。ひとつの物語世界が何度もリスタートされては、それをどのようなパースペクティヴで切り取るかによって相貌が変わってゆく、こうした小説のシステム自体にすでに作者のもっているある種のゲーム的な感性が胚胎しているように思われる。固有名詞の選定といい、いくらか神話的な趣のある日本地図といい、あるいはそれを「ラノベ的」と言い換えてもいいかもしれない(作者は別名でラノベ作品も書いている)。父から息子へと世代を超えて連綿とつながっていくさまは、さながら旧約聖書のようでもある。そうした現代の一大叙事詩における時間とは、折り畳まれた襞のようであって、語り直されるたびに新たな側面をひらきはじめていく。野心作だと思う。

 

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