iPhone を新調した。カメラの性能が優れているという触れ込みの機種を構えて、生活の合間合間にビデオを撮った。ある程度のヴォリュームになったので、2021年10月に撮影したフッテージから編集を施して、4分と少々の動画にまとめた。タイトルは三宅唱監督の「無言日記」から拝借。
まだ四年目のMacBookがすでに悲鳴を上げていて、iMovieが立ち上がらない。仕方なくスマホのiMovieで編集。スマホで撮影、スマホで編集、スマホでYouTubeにアップロード。ちなみにこの文章を書いているのもスマホからである。スマホの進化を喜ぶべきか、ひとつの小さなスクリーンにこうした営為が集約されてしまったのを嘆くべきか。このような未来を望み、このような現実を招来したのはほかならぬわたしたちであったはずだが。
わたしは撮りながら反=Instagramということを意識していた。何年か前に実装されたInstagramのストーリー機能を、漏れなくわたしも愛用していたが、しだいに嫌気が差してきて、いまやほとんど覗かなくなった。Instagram的、あるいはTikTok的なありかたに抗いがたい即時的な快楽があることは認めなければならない。しかしそれで失われてしまうものもあるのではないか。そういう考えで、ほとんどわたし以外のだれも観ることはないであろうこの試みに従事した。
しかしわたしは編集をしながら、すべてのカットを15秒以内に収めていることに気がついた。15秒という長さは、Instagramでひとつのストーリーに課せられた上限である。ああ、わたしたちの生理的な感覚でさえも、ひとつのプライヴェート・カンパニーが定める制約によって変容させられてしまっているのか、と否応なしに思わされるのだった(かつては縦長の画像や動画への忌避感は強かったが、最近は自然に縦向きのまま撮影をしてしまうことが多くなっていた)。当たり前のことではあるのだが、それにしても反=Instagramを徹底するのはむずかしい。
そう考えると、三宅唱の『無言日記』がそうした今日的な諸条件から自由になっているように見えたのは驚嘆すべきことである。『無言日記』は、奇跡が生起する過程を、あるいはその誕生の瞬間を記録することに成功していた。わたしたちは何もないところにカメラを向けることはほとんどないし、何も起こらなければ、自然とカメラを下げてしまうだろう。しかし三宅唱は、そうした気配を嗅ぎとる生来の才覚が働くのか、一見何もないように見受けられるにもかかわらず、カメラを向けているあいだに、その向こうで何かが起こってしまうのだった。すでに何かが起こっているものにたいしてしかカメラを向けられなかったわたしの、このささやかな記録とは、似ても似つかないものだったとあらためて痛感する。
もうすこしいろいろと書こうと思ったが、指が疲れてきてしまった。スマホは長文を書くのに向いていない。それにしてもわたしはこの試みを、自分のために今後も続けられるだろうか。