本棚(2020年12月)

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 一年前の師走、わたしは何を考えていたのか、ほとんど憶えていない。日記の類も断片的にしかつけておらず、そこに残されていないものは、ひょっとすると失われてしまったのではないかと悲しい気分に陥ってしまう。

 みずからの健忘症に抵抗せねばならない! ということで、2020年12月の記録の一環として、本棚についてのメモを残しておこうと思う。『サイード自身が語るサイード』から左は、今月本棚にあたらしく迎え入れ、積ん読になっている本。『OUT OF PLACE』から右は、本棚から引っ張り出してきたり、新たに購入したり、出自はさまざまだが、多少なりとも読んだといえる本。

 

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 2020年は一度も外国へ足を運ぶことができなかった。それもあってか無性に異国の空気が恋しくなり、本棚から四方田犬彦『ニューヨークより不思議』を引っ張り出してきた。氏による異国の紀行文は、『台湾の歓び』『モロッコ流謫』『土地の精霊』などいろいろと読んできたが、これもまた1987年と2015年の二度にわたるニューヨーク滞在について綴られたエッセイである。しばしば「人種の坩堝」といわれるニューヨークにあって、「ストレンジャー」である(を余儀なくされている?)アジア人などの芸術家や知識人たちとの交流が中心に描かれていく。陳凱歌と同じアパートメントで暮らしていたこと、ナムジュン・パイクに会いにいったこと。四半世紀を経て、かつてはアジア人に集まっていた四方田の関心がキューバパレスチナからのディアスポラへと拡がっていることに気づく。

 そのまま同じく四方田による『見ることの塩 パレスチナセルビア紀行』を手にとった。2004年に滞在したイスラエルパレスチナの滞在記の前半部分だけ読む。わたしはこの読書を介して、ほとんど知識がなかったイスラエルパレスチナへの関心を強めていった。海外文学読書会の12月の課題本であったアフマド・サアダーウィー『バグダードフランケンシュタインの舞台は、2002年の自爆テロがつづくバグダードだったが、2004年から現在に至るまで抗争の絶えないイスラエルパレスチナの風景と重ねて読んだ。

 パレスチナ人の映画監督であるエリア・スレイマンを観たのも、四方田によって喚起された関心の延長線上にあった。『消えゆくものたちの年代記』と『D.I.』(途中まで)をFILMEXのオンライン配信で鑑賞。『見ることの塩』には、スレイマンの映画を烈しく批判する映画人も登場していたが、わたしは二作品に接し、スレイマンにたちまち恋をしてしまった。いかにスレイマンが素晴いかという話を友人としていると、彼女からサイードの話を振られる。わたしは十年近く前にかろうじて『オリエンタリズム』をつまみ読みした程度だったが、『サイード自身が語るサイードとともに、佐藤真・中野真紀子『エドワード・サイード OUT OF PLACE』を勧めてもらい、さっそく購入。映画は未見なのだが、生前もサイードとなんのかかわりもない佐藤真という異邦人が、なぜ、どのようにしてサイードの映画を撮ったのかという本人による巻頭言につづいて、サイードが残したいくつかの課題を三十三名のサイードを知る者たちへと質問を投げかけていく。

 わたしはイスラエルパレスチナ問題の何に関心があるのだろうか。まだ明確な答えは見つけられていないのだが、亡命パレスチナ人としてだれよりもアイデンティティの問題が実存に深く陰を落としていたであろうサイードが「アイデンティティをめぐる問いというのは退屈です」と発言するに至るまで、いかなる道を辿ってきたのかと考えるにつけ、もっとサイードという巨人に、そしてイスラエルという国家をめぐる問題系に接近したい気持ちでいる。来月末に公開される予定のエリア・スレイマンの10年振りの新作『天国にちがいない』の鑑賞に向けて、もう少し解像度を豊かにしていきたい。

 

 イスラエルパレスチナと並んで、今月のもうひとつ大きな関心事としては、小津安二郎のことを挙げられる。小津安二郎の生日と没日である12月12日に『東京物語』と『晩春』を再見したのを皮切りに、年末の早稲田松竹の小津特集に通い、配信で何本か観ていっている最中だ。本棚にずっと息を潜めていた浜野保樹小津安二郎を引っ張り出し、どうやら盗作疑惑によって岩波新書でも欠番になっているという本書も良書であるように思えたが、そのあと蓮實重彦『監督 小津安二郎を手に取ると、蓮實による、知の戯れのスリルにただちに引き込まれてしまう。「後期の小津安二郎における日本家屋の二階の部屋は、宙に浮んだとしかいえない奇妙な空間である。」という書き出しとともに考察がはじまっていく「住むこと」。後期の小津作品における一階と二階を結ぶ階段描写の不在から進んでいく考察の見事なことよ。

 しかし、わたしが知る限り、かつて四方田犬彦東京大学蓮實重彦の授業を受けていたはずだが、蓮實について書かれた文章を読んだことがない。これは四方田が同じく東大で薫陶を受け、『先生とわたし』という一冊の書物にその微妙な師弟関係について書かれていた由良君美とは対照的である。まあ、それもわからなくもない。四方田が画面が隠蔽するものも含めて、映画がもつ政治性をつねに問題にするのに対し、蓮實は徹頭徹尾画面に映る運動性について語る。四方田と蓮實は、映画批評のスタイルがまったく異なるのだ。わたしは蓮實の書くテクストに触れるたびに陶酔めいたものを感じつつも、四方田の方法を信じたいような気がしている。おそらく四方田犬彦小津安二郎を評価していないのではないかという気がする。

 

 先月の『TRIP TRAP』がはじめての金原ひとみ体験だったのだが、書店に置かれていた新刊『fishy』も、たちまちに読了してしまった。現代を生きる3人のアラサーの女性たちの恋愛事情。歳を重ねていくことに抗い、あるいは無関心を装うとする女たちの等身大の姿が活写されていく。金原ひとみ、やっぱりかなり好きだな。虚勢と不安のぶつかる内的心情の機微の描写が抜群にうまい。知識を蓄えると脳の皺が増えるように、感情の襞が増えていったと感ずるようないい読書体験。

 朝、出勤する前に本棚を睨み、特に深く考えないままその日に持ち歩く本を選ぶ瞬間の幸福よ。そのように選んだ須賀敦子『ミラノ 霧の風景』がうつくしく描写する、明け方にミラノに霧が下りている光景は、なぜかいまのわたしの肌にはまったく合わなくて、二章ばかり読んだところで放り出してしまった。いっぽう、別の朝に久方ぶりに手に取った九鬼周造『「いき」の構造』は、やはりまったくもって素晴らしかった。1930年に著されたという本作だが、この本ではフッサール現象学的な本質直観の方法を踏まえつつ、ハイデガーから薫陶を受けたであろうすぐれた解釈学的方法論が展開されていく。媚態、意気地、諦め。「いき」という日本特有の現象が詳らかされていく過程をも愉しめるスリリングな書物である。

 

 あるとき友人と話題にのぼったので、二年振りにマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』を本棚から引っ張り出して何章か読み直してみた。平易な文体でありながら、まったくもって扇動的な書物で、いまの社会を生きる多くの人びとがこの書物から影響を受け、何かを語りたくなる気持ちがわかる。ひとの話題に上るといえば、文庫になった千葉雅也『ツイッター哲学 別のしかたで』もそうかもしれない。単行本ももっていたが、単行本の発刊から文庫化に至るまでのツイートも収録して再構成したものだというので、ついつい購入してしまった。折々の場面から呟かれる千葉雅也の、生活者/哲学者としての洞察の深さ。千葉のツイートを読むためにTwitterにログインしている節があるといっても過言ではないほど、ときどき彼のタイムラインを遡ってしまう。千葉が哲学者としてもつ「有限性」というモチーフが、Twitter という現代のサービスにも敷衍されていく。あるいはその逆といっていいかもしれないが、いずれにせよその循環が、その一貫性がもてている知識人はいま、どのくらいいるのだろうかなどとも考える。

 いっぽうで、日々の生活というものに、また新たなしかたで迫っていくのが 山口慎太朗『誰かの日記』である。2019年1月1日から12月31日までの365日間、一日も欠かさず書いた架空の「誰か」の日記をまとめたもの。この本は365日の日記でもありながら、365篇の短編小説でもあり、365通りの誰かの記憶でもある。装丁が美しいので、本棚で目に止めては、その日の日付をひらき、誰かが過ごした一日を確認してから本棚に戻すという特異な付き合いかたを送っている。

 

 あるとき、職場でわたしが何かに対して「11人いますね」と同僚にいったところ、同僚二人が「"11人いる"と聞いたら萩尾望都の漫画のことしか考えられない」といって盛り上がっていたので、わたしも負けじと萩尾望都11人いる!を読んでみた。確認してみると、確かに11人いたが、萩尾望都がなぜ素晴らしいのか、わたしはこの漫画だけではよくわからなかった。職場でいえば、先輩諸氏による共著である『国際文化交流を実践する』も読んだ。それぞれまったく異なる豊かな経験をもつ人たちと、同じ職場で働いているというのは幸せなことだ。仕事についてはげんなりすることも多々あるが、少し前向きな気持ちになれました。

 高野秀行『幻のアフリカ納豆を追え!』は、この数か月にわたって少しずつ読み進めている本。日本人のもつ「納豆神話」を鮮やかに解体していく。ちょうど韓国の「チョングッチャン」のくだりを読み終えたところ。そういえば今年の東京国際映画祭で観た『チャンケ:よそ者』という韓国映画で、高校生の男女が弁当箱に「チョングッチャン」があったなどといってじゃれ合っていたな。あれはほとんど納豆臭い臭くないで盛り上がる日本人の姿とまったく同じだった。

 東千茅『人類堆肥化計画』。「生きることの迫真性を求めて里山へ移り住んだ若き農耕民が構想する、生き物たちとの貪欲で不道徳な共生宣言」と惹句にある。わたしとそう年齢の変わらない著者の自意識の高さやエラそうな文体が少し鼻についてしまったのだが、彼の生きかたや思想には大いな敬意を憶えた。しかし移動を制限されることとなった2020年においてなお、わたしはその地に根を張ることではなく、異国へと赴くことばかりを考えてしまっている。それは今月の本棚を見ても瞭然としている。土地と溶け合うのではなく、つねに「ストレンジャー」でありたいと願ってしまっている。わたしは彼のような農耕民ではなく、遊牧民であり、ディアスポラなのであろう。

 

 

 以下、今月わが本棚に迎え入れたが、積ん読になったままの書物たち。

 「菊地成孔の粋(!)な夜電波」で成ちゃんが紹介していた筒井康隆『言語姦覚』Amazonから中古本が届いて、ぱらぱらと捲ってみたが、果たしてこの本を読むことがある機会が訪れるのかはちょっとうたがわしい。ちょうど先月、『HHhH』の著者ローラン・ビネの新作『言語の七番目の機能』を読んだこともあり、ロラン・バルトをあらためて腰を据えて読もうと考えて『映像の修辞学』『表徴の帝国』を買ったが、まだ1頁も開いていない体たらく。こちらはきちんと読みたい。

 来月から新たに主宰する日本文学読書会の課題本である宇佐美りん『推し、燃ゆ』。つかこうへい原作の演劇を観たこともあり、もともと演劇人であった部長と立ち話をした翌日にさっそく貸してくれた長谷川康夫『つかこうへい正伝』『インディペンデント映画の逆襲』もまた職場の人が書いたフィリピン映画についての研究書である。この書物をもとめたときに、書店で同じ本棚に並んでいた今福龍太『ブラジル映画史講義』もついつい買ってしまった。来年は、長いこと中断しているポルトガル語を一から学び直しながら、ブラジル映画史にもまた接近していければよいなあ、などと呑気に考えている。学びたいことが多すぎる。おなじ芽を毎年植えて、育ちぐあいの差に一喜一憂するほど老成して落ち着いていられないまだ赤ん坊なのだ。来年もたくさん本が読めますよう!