12 月 24 日 土曜日
サン・ラザール駅前のカフェで朝食を摂ってからシャルル・ド・ゴール空港に向かう。搭乗ゲートの横に設えられたテレビでは、アメリカ東部を襲う記録的な大寒波について報じられていた。リポーターはここ数十年でもっとも寒いクリスマスとなるだろうと語る。わたしはここ数日暖かくなってきたパリを脱出して、みずから極寒のニューヨークへと飛び込んでいくことになる。
まずはワシントンへの九時間のフライト。両隣の男性が激しく貧乏ゆすりをしていて、左隣にいたっては離陸から着陸まで止まることなくずっと足を小刻みに揺らしていた。読書をしようにも映画を観ようにも気になって仕方がない。注意するべきか何度も逡巡したが、最後まで何も言えなかった。彼は慣れないフライトで緊張しているのかもしれないし、深刻な持病をもっているのかもしれない。見知らぬ他人の貧乏ゆすりは、わたしがやすやすと立ち入っていい領域ではないような気がしてしまったのだ。単にわたしの気が小さいだけなのだが。
なるたけ貧乏ゆすりが視界に入らないように工夫しながら機内のディスプレイで『アフター・ヤン』('22)を観る。ぜんぜん面白くない。このところは A24 と聞いても食指が伸びないどころか、むしろ警戒してしまうようになった。あの見え透いた洒落っ気がどうも気に食わない。はたしてこのプロダクション・カンパニーは100年後にも顧みられているのだろうか。『アフター・ヤン』の監督は小津安二郎を愛好しているというが、まったく小津映画の芯を喰えていないという印象をもった。あえていえば日本画のもつ余白や構図を再現しようと躍起になって失敗したナビ派という感じか(ナビ派の場合は芯を食えていないからおもしろいのだが)。筋書や設定はカズオ・イシグロの『クララとお日さま』に似ているが、人間とAIの人情味溢れる交流を描く物語に新鮮味を感じないどころか、SFとしてのリアリティも欠落していたように思う。わたしは AI に関しては悲観的な立場をとっていて、いま AI という存在を描くなら、人工知能が人間のもつ悪意をいかに容易く可視化するかということを、西欧宗教思想史における〈悪〉の問題と突き合わせてみるべきではないかと思っている。
ユナイテッド航空の機内映画ラインナップにあまり惹かれず、ノートパソコンを取り出して久しぶりに北野武『ソナチネ』('93)を観る。ただただ沖縄の大自然と戯れるくだりが続く、あの中盤のシークエンスがいかに素晴らしいか。映画の冒頭には生半可な感傷の介在しないドライな暴力表象が呈示されていたことで、唐突に訪れた中空のようなこの幸福めいた日々は永遠に続くべくもない刹那であり、破滅に至る前の最後の煌めきにすぎないのだという予感が画面に満ちていて、観客はきわめてアンビバレントな感覚のもとでこれらのシークエンスを見守ることになる。浜辺でのたけしと国舞亜矢の会話。
「平気でひとを殺しちゃうってことは、平気で死ねるってことだよね。強いのね。わたし、強いひと大好きなんだ」
「強かったら拳銃なんか持ってねえよ」
「でも、平気で撃っちゃうじゃん」
「怖いから撃っちゃうんだよ」
「でも、死ぬのは怖くないでしょ?」
「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」
この乾ききった諦念の肌ざわりに痺れる。この感覚をここまで鮮烈に画面に焼き付けた映画作家はほかに思い浮かばない。わたしが『ソナチネ』に感動を憶えていると、隣に座る貧乏ゆすりの男性も『アフターヤン』を観ていることに気がついた。わたしが観ていたことに触発されたのだろうか? 映画について彼はどう思ったのだろう。話してみたい気もしたが、『ソナチネ』的な展開になるのをおそれて何もいわなかった。彼の貧乏ゆすりはさらに烈しさをきわめていた。
ワシントン空港で乗り換え。ワシントンは曇っていたが、恐れていたほどの悪天候ではなかった。わたしはついにアメリカ合衆国に足を踏み入れたのだと思いながら、トランジットでニューヨーク行の便に乗る。隣に座る褐色の肌をした青年が、離陸前に二回ほど胸の前で十字を切っていた。眼下にニューヨークの光が見えはじめたあたりで、機体が大きく揺れはじめる。青年はこれはいつものことか? と憔悴しきった様子でわたしに尋ねてきた。英語がほとんど通じないので、わたしは拙いスペイン語でなんとか彼の不安を宥めようと試みる。何事もなく着陸。ほっとひと息をついた彼と和やかに喋りながら一緒に手荷物検査場まで向かった。彼はコロンビア人で、わたしと同様にニューヨークで年末年始を過ごすのだという。抱擁して別れを告げたあと、去っていく彼の後ろ姿を見ながら、スペイン語だけしか喋れなくても、きっとこの国だったらなんとか生き延びれるのだろうなと思う。
夜のニューヨークは氷点下12度だった。ラガーディア空港のさびれた喫煙所で一本の煙草を吸っているだけで、またたく間に手指が凍りはじめる。ニューヨークに駐在する同僚の R が現れ、空港からジャクソンハイツまでの無料送迎バスに乗った。ジャクソンハイツと聞けば、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーがただちに思い起こされる。しかしクリスマス・イブの土曜日の夜だったためか、ワイズマンが捉えていたような街の活気はなく、この時間まで往来で店を開けていたのはいくつかのアジア系の店だけだった。
わたしたちはネパール料理屋に入って、冷え切った身体に温かい麺とチャイを流し込みながら、お互い新天地での近況を報告しあった。チャイは1ドルでポットからお替りし放題。R からはこの半年のあいだにニューヨークで観た映画のお薦めをひと通り聞いていく。東京からニューヨークに移り住んだことで、彼は伸び伸びとして幸せそうな様子に見えた。この街もあと数時間でクリスマスを迎えようとしていた。
12 月 25 日 日曜日
R の暮らしているルーズベルト・アイランドは、マンハッタンとロングアイランドのあいだに流れるイースト・リバーに浮かぶ、南北に細長く伸びる島である。R はニューヨークに到着してからというもの、マンハッタンやブルックリンの物件を方々探したというが、いずれも深刻な不動産価格高騰で条件の合う物件が見つからず、この島に居を構えることになったと語った。
朝方に R の住居から外に出てみると、川を挟んですぐ向こうにマンハッタンの摩天楼が一望できた。この近さにもかかわらず、マンハッタンやブルックリンへ行くためには、ルーズベルト島にひとつしかない駅まで15分ほど歩いて、そこから徒歩で橋を渡るか、地下鉄かゴンドラに乗って大きく迂回しなければならない。R によれば、ルーズベルト島はかつて刑務所や精神病院があった隔離島だったそうだ。いまでは再開発によって高級コンパートメントが立ち並ぶもの静かな地区となっているが、いまだに新たな橋を架けようとはせず、どこかひっそりと隔絶された雰囲気を湛えている。わたしは真冬の川を眺めながら、刑務所や病院に収容され、その窓から対岸の世界の中心ともいうべき都市を眺めるほかなかった人たちのことを想像してみた。R はこの川を自力で泳いでわたって、島から脱出を試みた人たちも数多くいたと語った。
わたしたちは突き抜けるような深い青色の晴天のもと、ゴンドラの乗り場までゆっくりと歩いていった。川べりには日差しを受けた鳩たちが優雅に休んでいて、たまにわたしたちの近くをリスが駆け抜けていく。視界には川向こうのマンハッタンのビル群や工場らしきものから立ち上る白い煙が見えた。そのままゴンドラに乗り込んで、五分ばかりの天空散歩。マンハッタンの上空のビルを通過するたびに、どこまでもまっすぐと伸びるストリートが現れては消えていく。ニューヨーク、わたしはニューヨークにいるのだ! と、言いようもない感動が湧き上がってくるのを感じた。
ゴンドラの終着駅のある59丁目のあたりから、まずはハーレムへと向かうことになった。わたしはそこまで歩いてみるのはどうかと提案したら、R はゆうに一時間半は掛かると渋る。確かにこの寒さで、それだけ歩き続けるのは厳しいかもしれないと、わたしも観念して地下鉄に乗ることに決めた。いくら仔細に地図を眺め回そうとも、都市の規模を肌で理解することはできない。ニューヨークという都市は、わたしが地図で見ていたよりも、ずっと広いことに気づかされた。
地下鉄のホーム、冬物のコートをシックに着込んだニューヨーカーたち。幾度となく映画やドラマのなかで目撃してきたニューヨークの風景。この地下鉄構内の独特な雰囲気はパリにもロンドンにも東京にもない。強烈なまでの都会のイメージ。わたしは地下鉄の地図を見ながら、R に向かって「トム・ハンクスってすごいよね、ハドソン河にボーイングを不時着させるなんて」と言ってみた。いうまでもなくイーストウッドの『ハドソン河の奇跡』のことである。映画好きの R はこのゲームのルールをただちに了解し、「トム・ハンクスはJFK空港から出れなくなったこともあるし、大変だよね」と返してきた。そのようにしてトム・ハンクス出演映画をめぐるクイズ合戦がはじまったのだが、互いに4作品ずつくらい挙げていったところで行き詰ってしまった。思いのほかトム・ハンクス出演作品を観ていない。
125丁目の地下鉄から外に出ると、ハーレムはもぬけの殻だった。並びの店はほとんど閉まっていて、ひと通りもほとんどない。わたしたちはアル・パチーノの出演作品クイズを出し合いながら(アル・パチーノはハーレム生まれ)、数ブロック歩いて、マーカス・ガーベイ公園を通り抜ける。黒人闘争史の英雄にちなんで名づけられた公園の岩石には大きな氷が貼りついていた。ハーレムはアフリカ移民の多い地区として知られているが、通りにはレンガ造りの古風な建築が並んでいる。Wikipedia には、もともとはオランダ系移民の入植地で、地名はオランダの都市ハールレムから名づけられたため、トルコ語由来のハーレムとはまったく関係がないと説明があった。
地下鉄でいちどマンハッタンに戻り、クラシカルなダイナーに入って35ドルのハンバーガーを頼む。飲み物も頼まず、ハンバーガーとフライドポテトが乗った一皿に5,000円近く払ったことになる。深刻な物価高と円安が相俟って、わたしは日本という貧国からニューヨークにやってきたのだと実感するのであった。今日はクリスマスで何も開いていなさそうなので、映画でも観ようかという話になる。わたしはインターネットでロウアー・イースト・サイドにある Metrograph という映画館にあたりをつけ、R とともに向かった。
この映画館の入口に到着するやいなや、わたしはたちまちこの映画館を気に入ってしまう。なんとシックで美しい空間だろう。2スクリーンの小規模な映画館だが、日替わりで古今東西のさまざまな映画が上映されている。上映ラインナップを見るだけで嗅覚とセンスのいいプログラマーがいるのだとわかる。わたしは短期逗留者の身分にもかかわらず、ついつい会員証までつくってしまった。侯孝賢『ナイルの娘』('87)とエルンスト・ルビッチ『桃色の店』('40)の2本のチケットを購入。
上映前に路上で喫煙していると、アジア系の顔立ちの青年に煙草をくれないかと声を掛けられる。彼は名前をキムといって、韓国系の二世だと付けくわえた。わたしはニューヨークに到着して二日目だというと、キムは「着いて早々にMetrographに来るなんて、きみはニューヨークでいちばんいい場所を選んだね」とはにかんだ。キムはアジア系の出自をもつ若きアーティストを中心としたアート・キュレーションの仕事をしているそうだ。直近の仕事のフライヤーを見せてもらって、上映時間が近づいているからと握手をして別れた。
わたしははじめて観た『ナイルの娘』にいたく感動してしまう。R の反応を伺ったところ、彼にとってはいまいちだったようだ。映画の合間に二階にあるバーでカクテルを飲んで、わたしはそのままいい気持で『桃色の店』を観る。ところが30分ほど経過したあたりだろうか、酔いと疲れが重なって、だんだん英語についていけなくなって寝落ちしてしまった。往年のハリウッド映画の英語、とくにルビッチやワイルダーの英語は古風なうえに早口で聞き取るのがむずかしい。本作の舞台となったハンガリーは、公開当時はすでに枢軸国側についていたはずだから、同作はアメリカでどういう受容をされたのかが気になる。あるいはブダペストの街角が描かれていることも、ほとんどのアメリカの観客にとっては気に留めない枝葉のひとつにすぎなかったのだろうか。
映画館を出ると、またもやキムと遭遇。わたしたちはお腹を空かせていて、彼に近場でお薦めの店がないかと訊く。すると歩いて数ブロックの激安中華料理屋を教えてくれた。餃子10個で3ドルと、ニューヨークの相場ではありえない額。すると、近くにいた男性がそのフレーズを聞きつけて、驚いたように「餃子10個で3ドルだって?」と聞き返してきた。そのまま彼は「つまりは20個の餃子で6ドルということ?」とおどけた口調でさらに続ける。わたしは彼のオーバーなリアクションがおかしくって、そのとおりだよ、30個で9ドルだし、40個で12ドルだと返して、皆で一緒にげらげらと笑った。
R と二人で、激安中華に足を向ける。本当に餃子10個で3ドルという破格だった。もう3ドル払って頼んだ酸辣湯の温かさがじんわりと体に沁みた。東京の恋人たちとビデオ通話をしていると、店員からは閉店するので早く食べ終わってくれと何度もせっつかれて、わたしたちは逃げるように店を後にして、すぐ近くのバーに吸い込まれる。猥雑としながらもどこか気品の感じられる雰囲気のバー。隣に座っていた青年と喋る。彼は生粋のニューヨーカーだが、むかしからこのあたりの地区に住みたいと願い続け、最近になってようやく念願が叶ったといっていた。わたしのほうはパリから来たというと、身を乗り出してあれこれと聞いてきた。キムのときもそうだったが、ニューヨーカーにとって「パリ」は特別な響きをもっていると実感する。アメリカにとっての憧れの場所なのだ(『パリ、テキサス』)。でもね、パリでは、ここまで自然に他人と会話がはじまることはあんまりないよ。ニューヨークのほうがずっとずっと人と人との距離感が近くて、他者にひらけている感じがする。わたしはそのようなことを伝えると、彼は神妙な顔つきで頷いていた。
12 月 26 日 月曜日
昼ごろからマンハッタンに出て、ひとりで周辺を散策する。友だちに薦めてもらったHalal Guys の屋台で牛肉のプレートを頼み、セントラル・パークのベンチに腰かける。気温はマイナス6度。みずから狂気の沙汰ではないなと思いながら、この凍えるような寒さのなかでプレートを食べる。寒さのあまり食欲も萎んでしまって、半分くらい残したプレートをセントラル・パークのごみ箱に投げ棄ててしまった。罪悪感。Halal Guys はおいしかった。
地下鉄で移動して、Bleecker Street を歩く。かつてボヘミアンたちが逗留していたとされる通りだ。わたしはこの通りと交わっている MacDougal Street の雰囲気が特に気に入って、この通りに位置するシックな装いのカフェに入った。カフェのスクリーンにはチャプリンの映画が投影されている。ヘンドリクス・ジンをトニックで割ったものを飲んで、ぱらぱらと持参していた文庫本をめくる。
店を出てさらに歩いていると「DESCENDANTS OF THIEVES」という名前の洋服屋を発見。 盗っ人の末裔。いったいなんて格好いい名前だろうと思って店内に入ると、若い店員がカウンターに座って常連客と親しげに話しながら、あれこれと音楽を聴かせ合っていたところだった。BGMだけでなく、こじんまりとした店内に並べられた洋服もどれもセンスがいい。夢中になって洋服を見ていると、かせきさいだぁの楽曲が流れはじめた。わたしは店員たちに驚いて話しかけ、それまで流れていた音楽を教えてもらった。
仕事終わりの R と合流して、ニューヨーク支部の所長宅で開催される忘年会に向かう。所長が暮らしていたのはアッパー・サイド・ウエストにある高級マンションの四十階だった。コロナ禍の真只中に物件を契約したので家賃もだいぶ安かったらしく、いま同じような物件に住もうと思ったら、到底手が出ないだろうねと、彼は豪快に笑った。まるまると太った七面鳥をいただく。この忘年会でニューヨーク在住の同僚たちといろいろな話をした記憶はあるのだが、途中から激しい腹痛に襲われ、ほとんど何を話したのか憶えていない。いま憶えているのは苦痛に悶えながら、地下鉄を乗り継いでルーズベルト島の R の家までの帰路のみである。途中から R も腹痛を訴えはじめて、これは食あたりに違いないと結論した。真冬のニューヨーク食であたりに苦しむ冴えないアジア人の二人組。なんだか滑稽な組み合わせだなと自分で笑ってしまった。
12 月 27 日 火曜日
ひとりで道を歩いていると、車椅子の黒人が声をかけてきたので、早合点して彼の車椅子を押す。どこまで行きたいのかと聞くと、いや車椅子は自分で押せるし、そもそも押して欲しいわけじゃないんだ、おれは腹が減ってるんだなどとごにょごにょ言っている。わたしは金が欲しいのかと聞くと、彼は素直に頷いた。まあ別にいいかと思って5ドル札を渡したのだが、財布に入っていた20ドル札も寄越せと言いはじめて、まったく礼儀がなってなさすぎると憤慨して立ち去った。どうしてあんな無礼な男に5ドルもあげてしまったのだろう。
再びルーズベルト島からマンハッタンを結ぶゴンドラに乗る。何度乗っても本当にすばらしい。わたしはマンハッタンの街角やデパートを散策しながら、道中で見つけた陰気くさいベーカリーに入って、歩きながらぱさぱさしたベーグルを食べる。ただただ小麦粉の味しかしない。これがアメリカの味か、と思う。
グラウンド・ゼロのあたりを散策し、その前にあるセント・ポール教会に立ち寄ったあと、メトロポリタン美術館へと向かう。事前にインターネットでチケットを予約していたので、スマホのQRコードを差し出すだけですぐに展示室に入ることができた。ビザンティン帝国とイラン美術の部屋が美しくて目を見張る。西洋美術のセクションでは、画家ごとにさまざまな小部屋があったのだが、ゴッホの小さな自画像が置いてある部屋がいちばん混み合っていた。わたしはルノワールやルーベンスの部屋などを素通りして、ピサロとセザンヌの部屋で長い時間を過ごした。コローの作品が多く並べられている部屋もよくて、この画家への深い愛を再確認する。
アジア美術のセクションを回ろうとするころにはすでに四時間経っていて、へとへとに疲れていた。当然一日では回りきれないほどの広さなのだが、コレクションの厚みとしては期待していたほどではなかった。やはりルーヴル美術館のほうが質・量ともに充実しているようには思う。いくら帝国とはいえ、欧州美術が海をわたっていくのはやはり難しいのだろうか。
セントラルパークを突っ切って、地下鉄に乗って Film Forum という映画館へ。イエジー・スコリモフスキの新作『EO』('22)を観る。美術展で疲れ切っていたわたしは、またしても眠り込んでしまった。客席ではあの EO と呼ばれるロバが何かするたびに大爆笑が起きていて、たびたびその笑い声で目を醒ます。日本で公開されるときには、気むずかしい顔をしたシネフィルばかりが駆けつけるのかもしれないなと思う。
そのまま Metrograph にいって、R と合流。五社英雄『牙狼之介』('66)を観る。「Samurai Wolf」といういかにもな英題が付けられているが、これはおそらく日本でもあまり観られていない作品。わたしたちのほかには30人くらいのお客がいただろうか。スローモーション、夏八木勲。
映画館から出て、わたしたちは界隈のピザ屋とタコス屋を梯子する。ピザ屋は昨晩キムが勧めてくれた店だった。賑わっているし、安いし、なによりも美味しい。満腹になって、ちょっと酒でも煽りたいねという話になり、チャイナタウンへと歩いて向かう。ここにはマンハッタンで一番大きく曲がっている通りがある。この通りはチャイナタウンにマフィアが蔓延っていたとき、ほかのマフィアやサツを撒くために使われていたそうで、友だちからの薦めに従って、その角の地下にあるバーをめざしていた。しかし年末だったためか店は閉まっていた。わたしはチャイナタウンの真只中にあって、ポランスキーの映画の記憶を掘り出そうとしていたのだが、うまく思いだせない。あとから調べると、ポランスキーの『チャイナタウン』は1930年代のロサンゼルスが舞台だとわかった。
夜遅くにルーズベルト・アイランドの駅に戻ってくる。冷え切っていた。ビル風なのか、川から吹き抜けてくる風なのか、とにかく風があまりにも冷たい。R の家まであまりの寒さに向かい風を受けながら二人で走って帰った。
ニューヨーク旅行記 | 20221228 - 20230104(全 3 回)