日誌 | 20221221 - 1223

12 月 21 日 水曜日

 パリ着の翌日に逢着したイラン料理屋を再訪する。今日はタブリーズという地方の郷土料理のクーフテ(肉団子)をいただく。ソースにはサフランやニンニク、赤玉葱を煮込んだもので昨夜から仕込んでいたんだと、店主が鍋を取り出して見せてくれる。わたしが二十五年前にこの店を開いたとき、まずはこのクーフテを作るところからはじめたんだ。だからこれはこの店のシグナチャーのようなものさ。あまりの美味しさに夢中で口に運んだ。

 12月21日、今日は何の日か知ってるか。聞きなれない単語に思わず聞き返してみると、つまりは一年でいちばん日が短い日だと教えてもらう。冬至はフランス語で Solstice d'hiver というそうだ。フランスでは冬至の日に果物を食べる習慣があった。冬至から続く長くて暗い冬には、市場に果物があまり出回らなくなるので、家族で集まって果物をみんなで食べたのだという。いまとなってはスーパーで年中何でも手に入るようになって、その伝統も失われてしまったけれどね。と、店主は悲しげな顔をして言った。

 日本の友だちと電話をする。好きな男の子に思い切って告白するも、あえなく玉砕してしまったという。告白する前に、彼から「カントリーロード」のギターコードを教わって一緒に練習していたらしい。数時間後に振られてしまう相手と男女のデュエット曲を練習するなんて切ない。彼女はこれから家に帰って「戦場のメリークリスマス」のピアノを練習してみると言っていた。坂本龍一の旋律は簡単に見えて、あの表現力の高みに達するのが本当にむずかしいんだよね。

 わたしはマレ地区の短期アパートに衣服を置き忘れていたらしく、一時的に預かってくれていたサン・ポールの「岸梅」という店に向かう。てっきり日本料理屋かなにかだと思っていたが、着いてみると日本の小さな骨董品屋で、わたしと同い年ぐらいの女性がひとりで働いていた。彼女はわたしに向かって、日本人ですよね、フランス語で話すと人格が変わってしまうので、先ほどの電話で失礼があったらごめんなさい、と日本語でいった。パリの街角でひっそりと構える骨董品屋の店番。とても格好いい仕事だなあと思う。わたしは衣服を受け取って足早に立ち去った。

 サブウェイのサンドイッチを頬張りながら辿り着いたポンピドゥー・センターの「Une quête(探究)」という蔡明亮ツァイ・ミンリャン)の映像展示を見る。蔡明亮が2012年から続けている「Walker(行者)」シリーズの9つの映像が、さまざまに趣向を凝らしたスクリーンに展示されていた。蔡明亮の長年の相方の李康生(リー・カンション)が、朱色の袈裟に身を包んで仏教僧に扮し、世界の至るところで、ゆっくりと、本当にゆっくりとした歩みを続ける姿を捉えた映像群である。この展示に寄せた蔡明亮の言葉が印象的だったので、簡単に訳してみる。

この数奇なパンデミックは、人類が抱えている問題を指し示した。われわれは速く進みすぎているだけでも、忙しなさすぎるだけでもなく、間違った方向に進んでさえもいるのではないか、と。われわれは地球に注意を払っているだろうか。強欲に身を任せていないだろうか。富や快楽、利便さや速さを求めるがあまり、人生においてもっとも重要なことを見失っていないだろうか。われわれの魂はまだ愛に満ちているだろうか――パンデミックはこうした問いを喉もとに突きつけたのだった。そのあいだも、行者(Walker)は、たったひとりでしずかに歩き続けている。

 もっとも新しい作品である「Where」というパリの雑踏で撮られた映像を眺めながら、わたしは行者の気の遠くなるほど遅い歩みの虜になった。往来では怪訝そうに一瞥をくれて過ぎ去っていく人たちが大半だが、なかには一緒に写真を撮る者や、何をやっているのかと声を掛ける者もいる。もっとも印象的だったのは、アジアか中東系の顔立ちをした若い男性で、彼は佇まいに美しさに撃たれてしまったかのように、しばらく立ち止まって呆然としていたのだった。何もかもが凄まじい速さで流転している世界で、その流れに抗うための「遅さ」のイメージを、いかに芸術作品が呈示するかというのは、きわめて現代的で重要な主題だと思う。展示室の出口のすぐそばで、小さな女の子が父親に手を引かれながら、修行僧の遅々とした歩みを真似ていた。わたしはその様子を目撃してうれしくなってしまった。他者の動きを模倣することで人間の身体性は伝承され続けてきたのだ。身体の現象学

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 そのまま隣の展示室で開催されていた「Décadrage colonial」と題された企画展を覗く。Décadrage とはずらされた cadre(フレーム)といった意味あいだが、この展示のタイトルにどのような訳語を当てればよいのかわからない。1931年のパリでの「国際植民地博覧会」開催の折に、ポール・エリュアード、アンドレ・ブルトンルイ・アラゴンらのシュールレアリズムの芸術家たちが「博覧会に行くな」と題した檄文を発表。この展示は、1930年代の写真や映像作品を中心に、エキゾチズムと反植民地主義のあいだで引き裂かれていたシュールレアリストたちの足跡を追うものである。マルク・アレグレが1926年にコンゴで撮ったドキュメンタリーの映像に惹かれる。ドゥニーズ・コロンブという写真家の撮った1949年のエメ・セゼールポートレートにも感じ入るものがあった。『帰郷ノート』の発表から10年後、フォール・ド・フランスの市長としてマルティニークのフランス海外県化を推し進めていたころの写真である。

 

12 月 22 日 木曜日

 朝、郵便局に寄って、友人たちに宛てたポストカードを投函。『ケイコ 目を澄ませて』を観てきたばかりという東京の恋人と、あの作品がいかに素晴らしかったかとメッセージでいいあった。

 昼、職場の同僚たちとイタリアンで食事。日本とフランスにおける雇用者と労働者の力関係の違いをこと細かに教わる。労働基準法をとっても、明らかにフランスのほうが労働者を守ろうとする意志が強く見受けられるという。この国で、長い時間をかけて労働者たちが団結して声を上げ続けてきた成果だろう。

 夜、シネマテーク・フランセーズクロード・シャブロル『美しきセルジュ』(’58)と『いとこ同志』(’59)の二本を続けて観る。上映前にはシネマテークのプログラム・ディレクターであるジャン=フランソワ・ロジェによる作品紹介があった。一切のメモも持たずに、すらすらと細かな年数や事実関係が飛び出すさまに驚く。この二作を並べて観ると、ジェラール・ブランとジャン=クロード・ブリアリの人物造形が、きれいに反転しているのがおもしろい。

Claude Chabrol, Le Beau Serge, 1958

 トリュフォーは『美しきセルジュ』について「リアリズムで始まって、形而上学で終わる」と評した。わたしはセルジュの献身を見ながら、真のいみで他者の実存を救済することは可能なのかと考える。『いとこ同志』では、最後の拳銃の伏線と回収の手つきのヒッチコック的な見事さに騙されてしまっているのではないかと勘繰った。この二作でいちばん記憶に残っている場面は、『美しいセルジュ』で、ブリアリが朝日を受けながらSardent の長閑な町並みを駆けていくところ。ヌーヴェル・ヴァーグのはじめての作品に、こうしたまっすぐに心を打つ美しいショットがあったことにある種の救済を感じた。

 

12 月 23 日 金曜日

 コートジボワールの兵士46人が、明確な理由も明かされずバマコで突然逮捕され、そのまま五ヶ月もマリで勾留され両国の緊張が高まっているという報道を聞く。国境を接しているマリとコートジボワールの関係は、2020年にコートジボワールの政権が交代して以来は悪化しているらしい。政権交代にあたって排除された前政権の何名もの関係者がコートジボワールに亡命し、マリの現政権が苛立っていることが理由のひとつのようだ。この二国に限らず、近年の西アフリカ地域では、こうした二国間の関係悪化の話をこれまで以上によく聞くようになったように思う。

 レバノン料理屋で、鶏のささみをつかったライスをいただく。ソースが美味しかったのだが、何が入っているのかさっぱりわからない。店員にレシピを訊いても、われわれもシェフから教わってないから知らないんだといわれた。ぼうっとしていると、パリ10区のクルド文化センターで襲撃があり、三人が亡くなったというニュースが入ってきた。パリの人たちも、こうしてまた新たな惨禍が生じるまでは、たった七年前のパリでシャルリー・エブドやバタクラン劇場のテロ事件があったという事実をほとんど忘れて日々の生活を送っていたと思う。国をもたずに世界中で離合を繰り返しすクルドの民族のことを思うと胸が痛む。

 ギャラリー・ラファイエットに出向いて、明日からの旅先のニューヨークで会うつもりの人たちのために土産物を買いに出かけた。クリスマスを目前に控えて、パリ屈指のデパートは客たちでごった返していた。子どもたちは往来に面するショーウィンドウに設えられた児童人形の舞台の前にしがみついて目を輝かせている。しばらく迷ったあと、ジャン=ポール・エヴァンのチョコレートやキャラメルを買った。

 わたしは歩いて仮住まいの家に帰りながら、昼間のテロ事件のことを思いだし、なんの予兆もなく日常を奪い去る暴力のおぞましさに恐怖した。帰ったらすぐに明日からの旅行の準備に取り掛からなければいけないなとも考える。